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参加型デザインの可能性と課題

「Designing participation - 参加型デザインの理論と実践」というイベントに参加して、参加型デザインについて、いろいろ考えさせられたので、まとめてみます。イベントは、レクチャー部分とワークショップに分けられていましたが、以下の内容は、イベントの内容というよりは、そこに刺激をうけて考えたことです。

「Designing participation - 参加型デザインの理論と実践」https://designdialogue02.peatix.com/view


参加型デザインとクオリティのマネジメント

「すべての地域住民が毎日1時間の余暇を持つために」ということを目標としておこなわれたフィンランドの事例が紹介され、とても興味深いものでした。わかりやすく、だれにでも自分のこととして感じることができて、さまざまな問題の解決において、基準を提示することができるという点で、きわめて秀逸だと思います。

では、この目標自体がどのように生まれてきたのかと考えると、非常に高度な属人的能力を必要とするもののように見えます。プロフェッショナルのセンスを感じるんですね。多くの人の意見を抽象化する作業、それを言語表現としてまとめる作業。要素は集団のなかから出てきたものだとしても、個人の能力が発揮されなければ、あきらかにこのような形にはならないと感じられます。

参加型デザインにおいて、個人の能力をどのように活かすのか、あるいは個人の能力を活かしつつ、属人的な、強力なリーダーシップで引っ張っていくというような形にならないで、(ほぼ)すべてのメンバーが、自分の問題として、課題に向かえるようにするにはどうするのか、というのは、非常にむずかしいことのように感じました。

また、集団による判断が、間違った方向に向かっていったときに、どうするのかという問題もあります。たとえば、この日のワークショップでもそうでしたが、10分間ディスカッションするだけでも、話をまとめる人、膨らませたり、方向性を変えたりする人、聞いている人、一瞬のうちに役割が分かれていきます。これはほぼ避けることができないことですし、すべてを避けるべきでもありませんが、参加する人それぞれが嫌な思いをしないで、自分も参加したという実感をもてたうえで、成果をだすと考えると、これはミニマムな政治の話になります。

ワークショップをやってみると、参加型デザインの可能性やむずかしさは、ある程度、その場で表れてきますね。ワークショップをファシリテーションする側、参加する側の両面でいろいろ体験することは、個と集団の関係を考えるうえでも意味があると思います。

参加型デザイン、それ自体が目標になってしまっては意味がなく、それが良い形で機能するということを考える必要があるはずです。集団としての意思決定、集団としての価値の創造、集団に参加することの楽しさ、これらを共存させるのは極めてむずかしいことで、これを仮に、一種のデザインと呼んだ時に、重要になるのは、リサーチの手法というようなスキルの問題なのだろうか?いわゆるデザインのセンスとかいわれる以上に、個人的な魅力やバイタリティというような、属人的な部分に依存してしまいがちになりはしないかとも思ってしまう部分があります。この政治的センス、果たして学ぶことはできるものなのだろうかと。

デザイン業界としては、これもデザインと呼びたいというのはわかるのだけれど、こうしたことの重要性を考えれば、なんらか別の名前を与えるべきではと考える面もあります。そもそも、人と人の関係、人と集団との関係をデザインすることって、ほとんどすべての人が、日々行なっていることであり、ある意味、すべての人が専門家なんですよね。社会的生活をしている人はみな、それを日々デザインしているわけです。うまくいっているかどうかは別として。

専門家としてのデザイナー、非専門家としてのデザイナー、調整役としてのデザイナーという分類が示され、これは一般的なデザイナーの関わり方として妥当だと思いますが、「自分の問題を解決するためのデザイン的視点」というのも必要かなとも思います。多くの企業がインハウスでデザイナーを持とうとしているのもこの流れと思いますし、客観性が必要であると同時に、内側の視点も重要で、デザイナーのスキルをコミュニティの内部に委譲していくことも必要になってくるでしょう。ビジネスとしてどうかという面は置いておいて。

この問題、結局はデザインの定義の問題になってくるんですよね。これについては、また別に書きたいと思います。(「デザイン」という言葉のデザイン


参加型デザインにおける日本の課題と教育

フィンランドにおける参加型デザインへ参加する人の姿勢や意識についても、お話をお聞きしました。ここには、フィンランドの教育の影響があり、ディスカッションの基本が教育されていて、個人の要望を通すというよりは、コミュニティ全体に対する意見がでてきやすいということでした。そうだとして、選挙の投票率ですら異常に低い日本で、どれだけ可能なのか、いわゆる意識の高い参加者ばかりが集まってしまったら、それが全体を表しているといえるのかという問題があります。

参加型デザイン自体は、日本でも昔からおこなわれているはずで、地域のお祭りなどもその一種と考えることができると思います。では、それを一つの理想と考えてよいのかというと、年長者や発言力のある人が方向性を決めていったり、コミュニティのなかでの弱者に対する強制力が発生するなど、問題は多く、そういう世界に合う人・合わない人がいます。そういった世界を嫌って、あるいは面倒くさくなって、多くの人がしだいに離れていったという面があると思います。

かといって、地域社会との関わりが弱くなったなかで、人間関係が学校と会社によって作られていって、ほぼそれしかないというような状況では、これから生きていくことはむずかしくなっていくでしょう。昔の日本的なコミュニティとは別の形の、よりフラットで、オープンで、自由なコミュニティの形というのが、選択肢として必要になっているように思います。

とはいえ、場の空気を重んじる最近の状況というのは、むしろ以前より一層、コミュニティづくりがむずかしい状況にもなっているかもしれません。そこでは、個人と集団との関係、間合いのとり方といったものを変えていく必要があり、そのためには教育的な視点が必要なように感じます。

教育というのは、「こういうふうに公共・集団と向き合いましょう」というような道徳教育的なものであっては危険だと思います。そうではなくて、コミュニティと関わって、自分も活かされて、成果がでて、暮らしがよくなって、楽しいというような成功体験をもつことで、自然と一人ひとりが、個と社会の関わり方を学び取っていくというサイクルを作ること、それは非常に時間のかかる大きなサイクルですが、そういったものを目指していくことが必要なのかなと思いました。

最近では、少子高齢化が問題とされていますが、これによって増えるものがあります。それは、スペースと時間です。人が減れば土地は余る。引退した人が増えれば、時間は余ります。スペースと時間って、かなり価値のあるものなんですよね。人が集まるのには、スペースと時間が必要ですが、これに余裕ができてくるわけです。これは一つのチャンスでもあるのではないかと、思ったりもするわけです。


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