『おかえり』は強がりの言葉だった。
『おかえり』と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?
わたしは、あなたがどんな環境で育ってきたのかわからないから、普通に使っているかもしれないし、一度も使ったことがないかもしれないし、大好きな言葉かもしれないし、大嫌いな言葉かもしれないと想像する。
わたしにとっての『おかえり』はというと、紛れもなく強がりの言葉だった。
『ただいま』を言わない子どもだった
記憶にある限り、わたしはあまり『ただいま』を言ったことがない。母が元気だったころ、母が帰ってくれば「おかえー」、自分が帰ってくれば「おかえりー」と言っていた。
憶測だが、私は働きに出ている母と2人暮らしだったので、彼女より先に帰る自分が『おかえり』によって迎え入れられることが少なかった。だから、自分で自分に『おかえり』を言ってあげていたのだと思う。
そう、「自分で自分を」迎え入れる。これがポイントだ。
『おかえり』には『ただいま』じゃなくてもいい
私は今シェアハウスに住んでいる。
帰ったとき、リビングに誰かがいれば、「おかえりー」の言葉をかけてもらえる。それに対して、結構しばらくは何の疑問も持たずに、「うん、ただいまー」と述べていた。
だけどある日、「おかえりー」と言われたとき、自然と「おかえりー」と返していた。次の日もその友人に「おかえりー」と言われたとき、「おかえりー」を返したくなった。
友人「(はるちゃん間違えて)おかえりって言っちゃったね」
わたし「うーん、なんかおかえりって言葉好きなんだよね。よく言っちゃうの」
友人「んー!なるほどね。そっか。めっちゃいいねそれ。」
なんで『おかえり』が好きなのかはわからなかったけど、『おかえり』を言う方が、やっぱりしっくりくるな。と思った。そして『おかえり』には『ただいま』じゃなくてもいいんだな。この子と住んでいてよかったな。と思った。
『おかえり』は「わたしを受け入れなくても大丈夫だよ」という意味だった
今朝ふと、『おかえり』『おかえり』のキャッチボールは、「自分で自分を」迎えているだけであり、目の前にいる人とのキャッチボールではなかったことに気が付いた。
せっかく目の前に、わたしが帰ってきたことを受け入れようとしてくれる人がいるのに、『おかえり』のネットを広げてくれているその目の前で、「いや、こちらがあるので結構です」と、自分で『おかえり』のネットを広げてくるまる行為だったのだ。
これは昔からずっと、自分で自分に『おかえり』を言い続けて来たからであって、それはつまり、「受け止めてくれなくても大丈夫!わたしがわたしを受け止めるから!ひとりでも大丈夫!!」という強がりだった。
まぁ今では、「こっちのネットにくるまりながらただいまー!!」みたいなテンションで使っているので、何にも問題ではない。というかこちらの方が、自分からも相手からもダブルで迎え入れられてハッピーなのでは?とさえ思う。
これからもボール、落としちゃうかもしれないし、相変わらず『おかえり』には『おかえり』の変化球を投げてしまうだろうけど、しょうがないなぁって拾いにいったり、転がっていってしまったボールをみて、一緒にケタケタ笑ってくれたり、たまに『ただいま』を言えるをそっと見つめてくれたりしたら嬉しいなぁと思った、平成最後の夏。
おかえりは、帰った時に人に会う挨拶の言葉である。(Winkipediaより)
生きる。 解釈が交わる世界で、手を取り合いましょう。