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生きたことについて

経験論と呼ばれる哲学の潮流では、人間は白紙の状態で生まれるとされる。が、例えば遺伝子のことを考えてみると、私たちにはすでになんらかの「文字」が刻み込まれている、とも考えられるのではないか。

聖地に刻まれた壁画が文字であるように、白紙に刻み込まれた文字は確かにそこにあるが、目で見ることはできない。にもかかわらず私たちはそこに文字が、意味が刻まれていることを理解している。それは差異の哲学者が語った「目と耳の間の経験」の如きものの、最初の実感なのかもしれない。

判読できないものの判読可能性。誰かから誰かに宛てられ、決して判読し尽くすことのできない「手紙」を判読する試み。「目と耳の間の経験」から出発したこの試みは、専ら「私」を主体としているが、これは偶然ではなくむしろ本性なのだ。存在の哲学者は、この「私」の「在るということが気になる」という点を何度も強調し、そこに特権を与えている。

「気になる」ことを端緒にして私たちは自然に哲学を始める。それが盛んな時期を世間では「青年期」と呼び、その間各人がアイデンティティの確立に奔走するとされるが、そこでまず気づくのは、「白紙」が実は、歪み、盛り上がり、折れ曲がり、襞を作り、そして一部は泥濘であるような、至極厄介な大地だということである。先にあげた差異の哲学者は「基底材には底がない」と語ったが、この大地もひび割れた隙間から底なしの暗闇がのぞいている。

重たい首をあげると、そこに文字があることに気づく。私が白紙に綴ってきた文字、青々と生い茂るあの文字である。過去から現在まで紡いできた文字は、大地に根を張り、伸び、絡まり、そしてまた思いがけないところで接続している。日光不足のせいか、枯れてしまったものもある。なんだ、アイデンティティなんてものはすでにここにあったじゃないか。

誰だって望むと望まざるとにかかわらず存在してしまったのだ。宛名不明の「手紙」を握り締め、行先も帰る場所もわからずにただ「気になる」ことしかできない。始まりもなければ終わりもないこの存在は、しかし思考し、語り出す。醒めない頭の中で温められた経験は、やがて自分固有の宇宙を形成するが、その無際限な広がりと未知とに反して、私は安堵する。

「私は『私の言いたいこと』を十全に操れるわけではない。語ったり書いたりした私の言葉、そこにはどこかしら他人めいた冷たさが付きまとうのである」。差異の哲学者のこの言葉は、宛名のない、判読不能な「手紙」のカラクリについて言及しているのかもしれない。何れにせよ、「手紙」を伝え残す時になって初めてわかることだが。

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