ヒロシマ モナムール 怨みは怨みを捨ててこそ止む
今年は日本が原子爆弾を落とされてから、また敗戦後77年目となる。
そして今日は8月15日、いはゆる「終戦記念日」。
毎年この季節になると、戦争や平和、そして戦後日本の有り様などについてあれこれと考えてしまう。
今年は8月6日に広島に、8月9日には長崎に行った。
今年行くようにしたのは、時間的にも多少経済的にも余裕があったからだというのもあるが、それ以上に、この国の戦後の在り方についてもっと考えてみたくなったからだ。
私の日本に対する鬱憤は相当なものがあるだろう。その鬱憤の大半は経済的なものというよりは、アメリカに追従する以外に戦略もない主体性のなさにある。
そういえば今年は広島市・長崎市ともに、平和記念式典にロシアとベラルーシの代表を招待しなかった。
戦争に片方だけが善で片方だけが悪だということは絶対にあり得ないが、両市とも、また日本は国家としても、ロシア=悪のレッテルを貼り続けており、今回の戦争では無批判にウクライナ側(=西側)についている。
本当の平和を願うのであれば、どちらの側も巻き込んで一緒に平和を誓うくらいのことをすれば良いのにとは思うが、広島市にも長崎市にも政治的な配慮と圧力があったのだとしても、一方的にロシア側が悪だと決めつけ、式典で平和を願うことすらさせないというのは平和都市の在り方としては如何なものかと首を傾げざるを得無い。
今年の決定は、今後ロシアとの間に様々な遺恨を遺すことになるとおもう。
1998年、インドとパキスタンが核実験を行なったときは、広島市は両国の大使を招待した。平和都市を目指す被曝都市としては、当然の決断であると思うが、勇気のいったことだったろう。
それに、1970年代では、広島の山田節男市長がフランスが核実験をしたことに対して抗議の意を込めて、市民と一緒に平和公園での座り込みをしたことがあり、その写真は原爆資料館にもあった。
今回のロシア・ウクライナ戦争とは状況が違うとはいえ、過去の広島市であれば今回どのような対応をしただろうか。
また、今年6日に広島へ行こうと思ったのには他にも理由がある。
随分前になるが、東南アジアで出会ったある旅人から8月6日の広島には行くべきだと熱弁されたことがある。それから十数年経った今でも、彼の言ったことが気になっていて、またこの日ある平和イベントを主催している知人にも会いたくて、私は旅立つことにしたのだった。
6日の朝から、私は平和記念公園へとむかった。
公園の周りには、戦争反対と核廃絶を叫ぶ旧態依然とした左翼と、その「非現実的な」欺瞞性を糾弾する右翼が対立していて、平和式典とは相容れない雰囲気に少し驚いた。
少し歩くと被害を受けた学生たちを追悼するモニュメンとがあって、天使のような像の前に浄財箱と線香が置いてあり、そこで祈りを捧げている人がいた。仏教のモニュメントではないのは明らかなのに、「浄財」と書いてあったことが少しおかしかった。 無宗教を装っていながら、伝統的な信仰形態を踏襲してしまっているところが、人間が如何に慣習と切り離せないかの証左だと思う。
だが平和記念公園各所では、大小様々な団体が周辺で集会を開いていたりして、皆それぞれ主義主張が違えど、原子爆弾の被害者を追悼し平和を願おうという気持ちだけは間違いなく一致しているのが感じられる。
原爆が投下された時刻である8時15分では、あたり一帯が静まり1分間の黙祷が行われた。この時だけは政治的主張をがなりたてる集団も大人しくしていた。
私は平和記念式典には参加できなかったが、式の終了後はせめて献花くらいはと思って、近くで花束を買い、モニュメントに捧げた。
そのモニュメントには
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
という有名なメッセージが書かれてある。
このメッセージには主語がなく、一体どこの誰の言葉なのか分かりづらくなっており、まるで過ちを犯したのは被害に遭った我々日本人だという風にとれそうな物言いでもある。
私としては随分と自虐的だなと思うが、広島市の見解としては、これは全人類の誓いであるということらしい。
それはそれで尊いことだと思う。
だが、こうやって主語を濁すことで、アメリカがおかした戦争犯罪は曖昧にされ、置き去りにされたままになっている。
このことを追及しようとする政治家はいないし、一般国民でもこれを問題視する人は少ないように思う。残念だ。
私はその後、原爆資料館を回り、目を背けたくなるよな歴史を目の当たりにした。
冒頭の写真は、原爆資料館にあった広島のある学校の写真だが、このようなきれいな笑顔をする児童も先生も一瞬にして吹き飛ばされたのだと思うと、無念でならず途中涙が止まらなかった。
6日の夜は、6年前に四国八十八か所を歩いた時に出会ったタケさんという広島出身のミュージシャンが主催するあるイベントに向かった。
今回この日に広島に来たのは半分はこれが理由でもある。
タケさんは、6年前の2016年8月6日からここ平和記念公園で毎年音楽イベントを主催している。
彼は四国で会ったとき確かこう言っていた。
世界を旅した時に、彼の地元である広島は世界の至る所で知られていることに驚いたと、だがそれは「原爆(Atomic Bomb)」で被害を受けた最初の都市だというネガティブな意味で知られているだけであってそれは少し悲しいと、もっと広島をポジティブに平和を祈れる場所にしたいと思った、と。
彼は今年、福岡県星野村にある「原爆の火」を、星野村からこの広島の平和記念公園まで歩いて持ってくるということをやった。
私はその経過をFBで時どきチェックしていたが、本当に頭が下がる思いがし、今年こそはまた彼に会いたいと思った。
夕方、宿から平和記念公園まで歩いていった。
夕方にもかかわらず昼の残暑が続き、汗がにじみでる。
平和記念公園では夕方から灯籠流しのイベントが行われており、川沿いには多くの市民が並びそれを 見守っている。
タケさんたちのイベントはそこから少し離れた場所で、静かに行われていた。
ネイティブアメリカンのティピのような天幕をステージにし、平和の火は会場の真ん中で灯されている。さまざまなアーティストが歌い、舞い、踊り、奏でている。
遠くにタケさんがいるのがわかった。 6年ぶりであったが、ドレッド頭から坊主頭に変わっているだけで他は当時の雰囲気のままだ。
色んなお客さんの相手をしておりなかなか話しかける機会がなかったが、頃あいを見て話しかけた。
「タケさん、久しぶりです。覚えていますか」
「。。。。。おお! タクヤ!」
タケさんはすぐに私だとわかったようだ。
ご無沙汰であることを詫び、あれから来ようとしていたが忙しくて来られなかったことを伝えた。
タケさんも、星野村から広島まで歩いて来るときに、6年前の四国巡礼のとき私と歩いたことを思い出していたところだったと言った。
私は、タケさんがこのような尊いイベントをずっと続けていたことをリスペクトしていると伝えた。
タケさんはありがとうと言って、少し小話をしては、また忙しそうに他の人の所に行った。
私は、静かにこのイベントに出てくるさまざまなミュージシャンたちの音楽に耳を傾け、身を委ねた。
中には、過去に聴いたことがあるミュージシャンもいた。 ヒットチャートには出てこないようなミュージシャンばかりであるが、皆タケさんの呼びかけに応じて集まった人たちばかりなのだろう。
平和を願う思いは確かなものだ。 それは、彼らの音とその場のバイブレーションを感じればわかること。
だがそのバイブレーションはこのイベントだけではなく、広島の平和記念公園全体に表れているように思った。
私は次の日の早朝に広島市内を出ないといけないため、タケさんに挨拶をして早めにイベントを後にした。
平和記念公園の平和の灯火には、夜でもまだ献花に訪れている人がいた。
米国に原子爆弾を落とされたという事実は、当事者ではない私からしても、米国に直接の恨みはないにせよ、何事もなかったかのように過ごす気にはどうしてもならない。
日本と米国が対等にやっていくならば、せめて謝罪の一言でも日本は米国に求めるべきではないのかともおもったりもする気持ちは変わらない。
だが、結局は恨みは恨みを呼ぶもの。
法句経(ダンマパダ)には次のような句がある。
「じつにこの世において、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である。」
ブッダの言葉である。
第二次大戦後、昭和26年に行われた講和条約締結のときに、仏教国であるスリランカはこの句を引用し、日本に対する賠償請求を放棄した。
日本も、米国の責任を曖昧なまま放棄していて良いとは思わないが、かといって恨みをベースにすべきではないのだとおもう。仏教国の人間として、私はこの法句経の言葉を大事にしていきたいと思っている。
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