私がコンテンツ
仕事をしているとき、企画をすることがあった。もっと正確に言うと、ドンドンと企画をした方がいい立場にあった。そして、企画力を上げたいな、と思った。企画のための考え方、発想力などを持っていた方がいいなと思っていた。それは今も変わらない。書く上で「何を書こうか、何が書けるか」「何を書けたら面白か」を考えるのは大切だ。
メリットから少し考えてみたい。すごくシンプルに言うと、人生が楽しくなると思う。生活の質が上がると思う。物事の見方が変わり、自分自身が興味深い人間になると思う。
企画とは何かを考えてみると、まあ色んな要素はあると思うのだが、ある一つの書籍曰く、決めること、らしい。様々な選択肢から、限定していって、これを実行しようと決断すること、これが企画の本質らしい。考えてみると、「企画」という言葉が広すぎて掴みどころがないのかもしれない。だから、人によって企画という言葉のイメージが違うのだろう。
企画をするイコール、アイディアを生み出す、という考え方もあると思う。企画関連の書籍を確認すると、やはり発想法や独自の観点の培い方など、唯一無二のアイディアをどうやって思いつくか、に主眼が寄っている書籍が多いような印象だ。事業や販促方法やイベントやキャッチコピーなど、その領域で、ないものをあるものにする、0→1という至極困難そうな印象である。
みうらじゅん、ステーブ・ジョブズ、横井軍平、ウォルト・ディズニー、秋元康、エジソン、鈴木おさむなど、そういう人達が、「企画者」という関連付けを行う人も多いと思う。要素と要素の組み合わせ、違った角度からの物事の見方、それらも企画の一部なのだろう。
そして、何を実行するかを決める、というのもコアな部分だ。アイディア自体は、もしかしたら慣れてくるとポンポンポンポンと、沢山生まれるかもしれない。ただ、全部を安易に実行する訳にはいかない。生活者・消費者がどのような欲求に基づいてどのようなものを今現在欲していて、どのアイディアを実行するとどのような便益が生まれるかを見定めて比較検討して、行わないアイディアは思い切って捨ててしまう。この「決める」という作業、「決める」ために分析や取捨選択を行うこと、これも企画の構成要素みたいだ。
他には、その生み出されたアイディアを上手い具合に表現して、コミュニケーションをとって、人々を巻き込んで、前に進める、というのも企画の一部なのだろう。面白いアイディアが思い付いても、それを実行までに移すのは、またハードルが高い。
例えば、「うーん、何か満足度が足りないなぁ」とモヤモヤモヤして『これをすればあなたも幸福度が上がる、バレットジャーナル』みたいな書籍を買って読んでみる。読んだ人のうち、実際に書かれたことを実行する人ってどれくらいいるのだろう。恐らく、半数にも満たない気がする。たぶん、数%ではないだろうか。僕も実行しない人間だ。
ゲームやイベント、事業となると、巻き込む人の人数やお金の規模、承認の障壁なども、かなり大きいものとなる。人脈を用いて関連領域に強いかつ公平な意見などをもらえる人に壁打ちをして、アイディアを実行可能かつ投資対効果なものへの変換して表現し、然るべき人に根回し・プレゼンテーションを行って承認をもらい、必要な人材を共犯者にしコンテンツを世の中に出す。こうやって書くと、ステップとしては単純そうだが、まあ(まあ僕自体そんなに知識経験は無くリアルな体感としてはあまりわからないが)、非情なほど難解で綿密なのである。まあ想像すると、だけど。
アイディアを生んで、どれをするか決めて、推し進める。この広範囲を、一つの言葉、「企画」で語られるのである。
企画って企画職のみが行いそうなちょっと仰々しいイメージあるかもれないが、広義だと、お昼に何食べるか決めるのも、暇な時にどこ行って何しようか決めるのも、企画なのだなと思う。だからこそ、はじめに書いたように、人生が楽しくなりそうだと思う。
例えば、仕事で金曜日に休みを取れた。土日も休みだから3連休だ。最近、土日は近場にしか外出していない。何か、パッと楽しいことはできないか。こんな時も、「企画」なのだ。オプションを洗い出してみて、条件を確かめて、その中で1番今の状態で楽しめてリラックスできそうな計画を行う。
例えば、彼氏ができた。今度、彼の誕生日である。彼氏は20代半ば、職業は食品開発、性格は陽気、趣味はキャンプ・フットサル・邦楽ロック。誕生日に彼が喜ぶ何かしらをしてあげたい。プレゼントをあげたい。こんな時も、「企画」なのだ。彼が今何を欲しているかを見極めて、彼が好きな領域の環境で何が起きていて、彼がどのようなプレゼントや計画で楽しめそうかを棚卸しして、複数選んで組み合わせたり加工したりして、準備時間とか予算とかを策定して、その中で1番楽しめそうかつ実行可能性のあるオプションを選択する、それも企画なのだと思う。
仕事での企画だけでなく、色んなものを企画だと思って、推し進めることは大事で楽しい。目的を意識して達成できそうか(「おいしいご飯を食べたい」「暇を潰したい」とかレベルでも)を考えると企画者としてのトレーニングになりそうだ。
もうこの時点で楽しいと思うのだが、このような、例えば「相手に1番楽しんでもらうためには」を考える時に、どのようにこの計画の質をあげていくか、というのも、たぶんだが、これまた楽しい観点なのである。(僕は、最近こういう観点で物事を見始めて、若干楽しい。)
全てはコンテンツなのである。全ての裏側には企画がある。企画者がいる。全て企画から始まってるのだろう。そこに目を向けるのが大事だなと。例えば、「くまモン」「欅坂46」「(サントリーのチューハイの)ストロングゼロ」はなぜ生まれたかみたいなのを考えてみるのである。流行っている、世に出ている、自分の目に入る、ならばその企画が成功しているはずだ。どうやってそのアイディアが生まれたのか、なぜその時代で、なぜその色彩・計上で、なぜそのコンセプト・名前で、世に排出されたか、などを想像するだけでも刺激的である。想像して調べて見るのもいい。その雑多なサンプルデータと、今売れているもの、人が興味を持っているもの、への敏感な目が、企画のネタ、人々との共通言語になる。ほら、楽しい。
そして、もう一つ。今の話は目線を持つ話と思いを馳せる話だが、今度は自分の強さ・成長につながる考え方の話である。そして、これがこのエッセイなのか駄文雑文なのかで、1番書きたくて忘れたくなかったことである。(まあ、文章にしてまとめてしまうと、書いたこと自身に満足して忘れるのだが。)
それは、「自分はコンテンツである」という考え方である。
皆さんの周りにもいないだろうか。「あの人と会うと、いつも楽しいし気付きを与えてくれるんだよね」「〇〇に関してはあの人に話しかけたら絶対だよ。有益でリアルな価値のある情報をいつでもくれる」って人。そういう人って(コンテンツだと思って会うこと自体をしている訳ではないが)、人が集まってくる。インパクトすごい。価値がすごい。凄みがすごい。「なんだあの人、まじですごいな」と、飛び抜けている感じというか、天才性というか、面白い人間性というか、変態さ・オタクっぽさというか、卓越性というか、もうそれはそれはかっこいい(と僕は思う)。
そういう風になってみようとするといいと思うのだ。自分が持っている情報の質と量を上げよう、自分の思考力やコミュニケーション能力を上げよう、みたいに、自分と自分が持っている知識・スキル・経験を切り分けずに、全部一緒くたにして、「自分自身が、楽しみ・面白みを人々に提供するコンテンツだ」「わたしがコンテンツだ」という考え方を自分に植え付ける。そして、自分というコンテンツの質と質量を上げようとする。
そのために、インプットしまくる。流行や人間の欲に敏感になる。人や環境を観察する。企画しまくる。自分は企画者であり企画だという自負を持つ。企画は、量が質を生むのだ。その集合体が、自分であり、自分がコンテンツだと思いこむ。好奇心の塊となり、情報に敏感であり、多角的に想像し、インプットの量を膨大に行うと、自分が面白いコンテンツになると思う。先程述べた「あの人に会うと、いつも面白い情報をくれるし気付きを与えてくれる」という存在になる。まあそうなって何になるのだろう、という観点もありながら、まあなんかかっこいいし凄みがすごい、知的で秀逸で話題豊富で哲学的な、そんな人間になれると思うのだ。かっこいいよね。
と、いうことで、「自分はコンテンツである」と思い込んで、色んな情報を仕入れてみようと思う。色んな物事の裏側にどんな企画があったか想像して、流行りや生活者の欲に注目してみようと思う。日頃から何事を決める時も企画だと思って、プライベートでも仕事でも沢山企画をしようと思う。
僕が良質なコンテンツ、優れた企画者になることを楽しみにしていてほしい。まあ、ここまで書いておきながらあれだが、飽き性なので、すぐに別の概念に心移りするかもしれないが。まあでも、「まあ、まあ」とうるさくて申し訳ないが、自分が良質なコンテンツになること自体は、どんな仕事をしていてどんな趣味にハマっていても、追求していきたいと思うので、その観点では、僕自身が僕がどんなコンテンツにこれからなるのか、楽しみにしている。
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