心をさみしさで満たす「からっぽ小人」の正体
あ、さみしい。
と思ったときにはもう、さみしさに絡めとられている。
冬はそれが多い。特に夕方。ベランダの洗濯物を取り込んでいるとき、ふいに崩れ落ちそうなほどさみしくなる。
同じ部屋に夫がいるので、物理的に孤独な状態ではない。精神的な結びつき云々を考えても、私は孤独ではないと思う。
「○○だからさみしい」と説明できる理由はないけれど、本能的にさみしい気分になるのだ。「眠い」や「お腹すいた」と同様に、「あ、さみしい」とだけ感じる。
なぁんだ、たかが気分じゃないか。
自分にそう言い聞かせ、引きずられないよう淡々と過ごす……のが理想だけれど、気づけばさみしさに身動きがとれなくなっている。
◇
今もさみしがりやだが、10代の私は今よりずっと、さみしさを消化できずにいた。さみしくてかまってほしくて、友人に頻繁にメールしては、うざがられて嫌われる。そんなことを繰り返し、ようやく「自分の感情は自分でなんとかするしかないんだ」と学んだ。
二十歳のとき、専門学校生だった私は、極力「何もしない時間」を作らないようにしていた。
学校以外の時間はバイトか小説執筆に費やし、それでも余る時間を友達とのお酒で埋める。親から仕送りしてもらってるというのに、行かなくてもいい飲み会にたくさん行った。
とにかく、時間を埋めることに必死だった。1年の冬に恋人と別れてから、さみしくて気が変になりそうだったのだ。
当時バイトしていた居酒屋はオフィス街にあり、土曜は9時に閉店する。帰宅すると、夜が妙に長く感じられた。
退屈は厄介だ。からっぽ小人を連れてくるから。
心を侵食してくるさみしさを、私は「からっぽ小人」と呼んでいた。
奴につけいる隙を与えてはいけない。巣食われたら最後、あっという間に心がさみしさで水浸しになってしまう。
予定のない夜は、ひたすら本を読んでからっぽ小人を遠ざけた。SNSがない時代、私にはそれしか術がなかった。
携帯電話はある。友達もいる。だけど、用事もないのにメールできない。だって今、相手は楽しい時間を過ごしているかもしれない。邪魔しちゃ悪いじゃないか。
だから、本があってよかった。一睡もできない夜、ただ奥歯を噛みしめて耐えるのは苦しい。深く水中にもぐるように本を読み、からっぽ小人から逃げつづけた。
◇
今でもはっきりと覚えている会話がある。
その日は私とR姉とK村くんの3人で、学校の近くの焼き鳥屋に行った。R姉とK村くんは私よりひとつ年上で、文学と哲学に造詣が深く、抽象的な会話ができる友人だった。
私は、からっぽ小人の話をした。
「ぜんぜん孤独じゃないのに、家族も友達もいるのに、それでもさみしくなっちゃうの。恋人ができたら、からっぽ小人は来なくなるのかな」
R姉とK村くんは首を横に振る。
「そんなことはないよ。恋人がいたときだって、からっぽ小人は来てたでしょう?」
R姉が言う。最低限の説明だけで、からっぽ小人の概念をすっかり理解しているのがすごい。
「そういえば、そうだね」
「どんなに信頼できるパートナーがいたって、からっぽ小人はやって来る。私のところにも来るよ」
K村くんもそうだそうだと頷く。ふたりとも、それぞれパートナーがいるのだ。
「からっぽ小人からは逃れられないのかな」
「逃れるとかじゃなく、もう住んでるんじゃないかな」とK村くん。
「住んでる?」
「そう。からっぽ小人は外からやってくるんじゃなくて、生まれたときから住んでるんじゃないかな。ひとりひとりの心の中に」
「そうだよ。人間が生まれ持った、根源的な感情だよ」とR姉は断言する。
「さみしくないときだって、いるんだよ。それに気づく人と、気づかずにいられる人がいるだけで」
そうなのか……も。
オレンジ色の照明の下、R姉とK村くんはからっぽ小人の概念を作り上げていく。まるで、粘土で像を形作るように。
◇
私はその後、今の夫と出会い、結婚した。
今もときたま、抗いようのないさみしさに飲み込まれる。R姉の言ったとおりだ。パートナーがいても、からっぽ小人はやってくる。
からっぽ小人に巣食われたとき、私は「人間が生まれ持った、根源的な感情だよ」という言葉を思う。
そうか、それなら仕方ない。
なんだかんだ言っても、私はからっぽ小人が嫌いじゃないんだ。
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