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ジョバンニの食卓4 同情しないと決めた

前回までのあらすじ:17歳の美希は、36歳の父親・広治(こうじ)と二人暮らし。幼い頃に家を出た母親の記憶はない。広治や幼なじみの陸生(りくお)と平和な日常を過ごしている。ある日、広治から恋人ができたと聞かされて……。(第一話から読みたい人はこちら


二学期が始まった。

三組の教室の前で陸生と別れ、五組の教室へ入る。一歩足を踏み入れたとたん、一ヶ月以上のブランクがなかったかのように体が教室の喧騒に適応していく。

みんながうっすら日焼けしている中で、一学期以上に青白い亜沙子が近づいてきた。

「私はね、悲しみの果てに行きたかったよ」

相変わらずだな。

亜沙子は夏休み中、半年付き合った予備校講師にふられた。その男は前々から二股をかけていたらしく、亜沙子を一方的にふった直後に婚約した。

お盆の最中、亜沙子から深夜にかかって来た電話でそれを知った。私はなにも言えず、黙って聞くしかなかった。

亜沙子が悲しい思いをするのは嫌だ。亜沙子には、早く心から笑えるようになってほしい。ありきたりすぎる感想だけれど素直にそう言ったら、亜沙子はがさがさした涙声で「ありがとう」と言った。

私は「会おうよ」と提案したけれど、亜沙子は「一人にならないと悲しみの果てに行けないから」と断った。彼女は残りの夏休みを、『悲しみの果て』へ向かう旅へ費やしたと言う。

「悲しんで悲しんで、もうこれ以上悲しめないっていう限界のとこまで行ったら何があるんだろうって。私は悲しみの果てをこの目で見たかったの。でも駄目だね。食欲なくても三日も何も食べないでいればお腹すくし、眠れないとか言いつつも四十時間起きてたら眠くなるし。転んだらやっぱ無意識に手ついて自分守っちゃうでしょ。顔面打ちつけて鼻血出したいって思っても、やっぱ自分を守っちゃうんだよ」

亜沙子は一気に言うと、力なく笑って自分の席に戻っていった。割り箸のような細長い身体は、夏休み中にいっそう細くなったようだ。

入学式で隣の席だったのがきっかけで、私たちは友達になった。仲良くなってしばらく経ったある日、私は、我が家の事情を亜沙子に話した。亜沙子はマックのコーヒーをすすりながら黙って聞いていたが、私が言葉少なながら話し終えると「幸せそうだね」と言った。

「そう言われたの初めてだよ」
「そう? だってお父さんの話してるときの美希、楽しそうだもん。お父さんのこと、好きでしょ。美希は家族に恵まれてるね」

家族に恵まれてるなんて言われたのは初めてだった。

そうなのだ。私は、母親がいないことを不幸だと思ったことがない。強がりじゃなくて、本当に思ったことがないのだ。「ふつうはそう思うもんなのかな?」と不安になるくらい、自然に。

なのに、我が家の事情を知った人の多くは、私を「かわいそう」と思う。高校生にもなるとあからさまな同情を口にする人はいないが、口にされなくともわかるときがある。あ、この人私のことかわいそうって思ってるな、と。

そんなとき、私は少し引いてしまう。なんていうか、「母親が出て行った=かわいそう」の公式をすべての家族にあてはめるのは、ずいぶん浅はかだと思うのだ。あまり頭がよくない私から見ても、頭悪い感じ。

亜沙子は、私に同情しない。だから私も、亜沙子に同情しないと決めた。亜沙子の悲しみは亜沙子だけのもので、私が勝手に共有したり疑似体験したりしてよいものではないから。

ホームルームが始まり、三者面談についてのプリントが配られた。三年生の二学期。当然、進路のことを話すのだろう。

私は、進学しないと決めていた。特に勉強したいことがないからだ。学びたいことがないのに大学へ行ったって退屈だろうし、学費ももったいない。

陸生は『世界一周』を経営するため経済学部で経営の勉強をしたいと言うし、亜沙子は精神科医になるため心理学を学びたいと言う。どうしてみんな、何かをやりたいと思えるんだろう。

そういえば、広治は子供の頃から漫画家になるのが夢だったらしい。十八で就職するはめにならなければ、漫画家になっていただろうか。広治が描いた絵は、あの『銀河鉄道の夜』の絵本でしか見たことがない。どこか温かい、青い夜の絵。

学校帰り、亜沙子とミスドに寄った。店内は甘い匂いが充満している。私はオールドファッションとウーロン茶、亜沙子はコーヒーを注文した。

広治に彼女ができた話をする。

「今までいなかったのが不思議だよね。広治さん、まだ若いし可愛い顔してるし」

亜沙子はうちに泊まりに来たとき、広治と会っている。亜沙子いわく、私と広治はまったく似ていないらしい。たしかに、広治は二重まぶたのくっきりした目で、私は奥二重。広治は丸顔で、私は面長。私は美雪さん似なのだろう。

「広治さん、再婚するの?」
「まさか。まだ付き合い始めて一週間も経ってないよ」
「いや、すぐじゃなくてもさ。あんた、五歳しか違わないお母さんでいいの?」

お母さん?

怪訝に思っていると、亜沙子が「広治さんが結婚したら、その彼女が美希のお母さんでしょ」と補足した。

「あぁ、そっか!」

考えてもみなかった。

「いやなの?」
「いやではないけど。なんか想像つかないんだよ。お母さんのいる生活って」
「まぁ、その頃には美希も家出てるかもしれないしね」

ポケットの中でスマホが震えた。見ると、陸生からのメッセージだ。

『ラーメン行かね?』

反射的に『いいよ 今ミスド』と返信する。すぐに既読がついた。

「陸生とラーメン食べてくけど、亜沙子も行かない?」

陸生と亜沙子はクラスが違うものの、私を通じての友達だ。

「私、これから家庭教師来るから」

ほとんどの人がしているように「カテキョ」と略さないのが亜沙子らしい。

十分ほどすると陸生が合流し、三人で駅まで歩いた。

「亜沙子、勉強してんなー」
「陸生も受験勉強してるんでしょ?」
「夏期講習終わってから進まない。やっぱ俺バイト辞めようかな。時間足りねぇ」

ラーメン食べていていいのだろうか。

駅で亜沙子と別れ、駅前の大通りから脇道へ入り、小さな商店街を歩く。陸生とたまに行く、可もなく不可もないラーメン屋があるのだ。

夕方の空は昼間より暗い水色で、遠くのほうが薄いピンクになっていた。秋は、夕暮れの帰り道を思い出す。小学生の頃、帰り道はいつだって、秋の夕暮れだった気がする。

ふたつ並んだうすい影ぼうしに目を落とす。私の頭のてっぺんは、陸生の肩と同じ高さにある。陸生の影ぼうしの、頭が動いた。

「あと一週間だ」
「なにが?」
「美希の誕生日」

私はもうすぐ十八になる。広治が父親になった歳だ。

「今年どうすんの?」
「前日に亜沙子たちが祝ってくれるみたい」

高校生になってから、誕生日は毎年そのパターンだ。当日の夜は、予定を入れない。広治と陸生とお寿司をとって食べるから。

目的のラーメン屋に着いたはいいが、店内は暗く、明らかに営業していなかった。ドアのガラスに、紙が貼ってある。

『本日は納得のいくスープができなかったので休業させていただきます』

普段のアレは納得のいくスープだったんだ!

そう思い隣を見ると、陸生も同じことを考えているのがわかってしまい、二人で笑った。

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