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嵐と祖母(享年93)の思い出

嵐が来年の大晦日をもって活動を休止する。

そのニュースを目にしたとき、祖母を思い出した。

一緒に暮らしていた祖母は2011年に93歳で亡くなったのだけど、ジャニーズが好きだった。彼女はSMAP、TOKIOとお気に入りを乗り換え、2009年頃からは嵐を応援していた。

祖母が生きていたら、そして私が実家に住んでいたら、ふたりとももっと大騒ぎしていただろう。

ああ、言いたい。

「おばあちゃん、嵐が活動休止するよ。おばあちゃんの好きだったニノはもう35歳だよ。私もだけどね」

たぶん、祖母が嵐を好きになったきっかけは私だったと思う。

意外だと言われるけど、私は嵐にハマっていた時期がある。「All the BEST! 1999-2009」が発売された頃だ。

けれど、ファンというほどでもない。

当時、友達に「嵐の中で誰が好きなの?」と聞かれ、「そのときによる」と答えたら、「それ、たぶんファンじゃないよ」と言われた。そのくらい、私のハマり方は浅かった。

そんな私でも、「ひみつの嵐ちゃん」は毎週見ていた。テレビっ子の祖母も一緒に見るようになり、それがきっかけで祖母は嵐を好きになった。

祖母のお気に入りはニノだった。

ニノがバラエティで「ゲームばっかりしていて、目上の人にも生意気な口をきくキャラ」をネタにされる(あるいは自らする)たび、祖母は「私、この子好きさ」と言った。

私と同い年のニノはいかにも現代っ子(当時の)という感じで、祖母の生きてきた時代にはない価値観を持っていたと思う。けれど、祖母はそういうことはあまり興味がないようだ。

たぶん、ニノの顔や雰囲気が好みなのだろう。祖母は、SMAPでは中居君、TOKIOでは国分君が好きなので、小柄で童顔で可愛い感じの男の子が好みなのだと思う(お若い方にはピンとこないかもしれないけど、私と祖母は中居君や国分君が「男の子」だった時代を生きている)。

祖母はすっとぼけた人だった。老人だからボケているのではなく、天然なのだ。お人よしでおおらかで、ときに大胆。「引き取り手のない他人の遺体を引き取ろうとした」という逸話を持つほどだ。

若い頃は亭主関白な祖父に従うおとなしい妻だったらしいが、祖父が介護が必要な身体になってからはどんどん強くなったという。私が生まれたときにはすでに、祖母は祖父よりずっと強かった。

祖母には4人の娘と12人の孫がいて、みんなおばあちゃんが大好きだった。

孫たちが大人になるにつれて、祖母はどれだけ場を仕切っても、どれだけトンチンカンなことを言っても、「おばあちゃんだからしょうがないな~」と笑顔で許される、マスコット的な存在になっていった。

祖母は亡くなる1ヶ月前ほどまで、相葉くん主演のドラマ『バーテンダー』にハマっていた。

ニノの次に相葉くんが好きで、むしろこのときは相葉くんに目移りしていたように思う。

『バーテンダー』は23時台という遅い時間帯に放送していたのだけど、祖母は毎週欠かさずリアルタイムで視聴していた。

当時の私は実家に住んでいたので、母とふたりで「おばあちゃん、このドラマの視聴者で最高齢じゃない?」と言って笑った。

祖母は、本当に元気だった。亡くなる前々日も、すき焼きを食べて、ドラマ『JIN-仁-』を見ていた。

その日は母の日で、祖母は「母の日だからお肉買ってきてすき焼きにしなさい」と言った。母は「え~、別にあるものでいいわよ。めんどくさい」と渋る。母は祖母の実の娘なので、仲がいいぶん遠慮がない。

当時は父が単身赴任中で、私と母と祖母の3人で暮らしていた。祖父は私が18のときに亡くなり、兄と姉はとっくに家を出ている。私も家を出ていたのだけど、いろいろあって実家に戻っていた。

祖母は、「母の日だから家族にすき焼きを食べさせたい」みたいなことを言っていたけど、自分が食べたい気持ちもけっこうあったと思う。結局母が折れて、その日の夕食はすき焼きになった。

祖母はお腹いっぱいにお肉を食べ、お酒を飲んで酔っ払い、好きなドラマを見て寝た。

その翌朝、祖母は「お腹が痛い」と言い出した。母が救急車を呼び、祖母と一緒に病院に行く。当時ニートだった私は犬と一緒に留守番をしていた。

私は胃もたれだろうと思っていて、そんなに心配していなかった。「おばあちゃん、かわいそうに。早くお腹痛いの治るといいね」くらいの気持ちだった。

病院から母が電話をかけてきて、「今は落ち着いてるけど、念のために入院して検査することになったよ」と言った。母の声も、まったく深刻さがなかった。

けれどその翌朝、祖母は病院で息を引き取った。

最後に看護師さんが声をかけたとき、祖母は「ママ、何時に来るかい?」と聞いたそうだ。ママとは私の母のこと。私も兄も姉も、母を「お母さん」と呼んでいて、祖母だけが実の娘をママと呼んでいた。

そのときはまったく苦しんでいなかったそうだ。その数十分後にまた看護師さんが声をかけたら、祖母はもう息をしていなかったという。

びっくりした。

私も母も、祖母の最期に立ち会えなかった。

病院に向かう車の中で、ラジオから「インディアンは二度死を迎えると言います。一度目は、死んだとき。二度目は、自分のことを覚えている人がいなくなったとき」というナレーションが流れていた。

私も母も、悲しいというよりポカンとしていた。

お葬式はにぎやかだった。

前述した通り、祖母には12人の孫がいるが、当時は14人のひ孫がいた(現在、祖母のひ孫に該当する子供は22人に増えている)。

ひ孫が全員集合したので、葬儀場も火葬場も保育園のような大騒ぎになった。

葬儀で久しぶりに顔を合わせた従兄弟たちに、私は最近の祖母の様子を話して聞かせた。私は唯一の、祖母が亡くなる直前まで同居していた孫だから。

「おばあちゃん、嵐にハマってて。1ヶ月前まで相葉くんのドラマ見てた」

私がそう言うと、従兄弟たちはみんな嬉しそうな顔をしていた。

嵐が好きだったことも、最後の晩餐がすき焼きになったことも。

みんな、「おばあちゃんらしいね」「理想の最期かも」と笑った。


飽き性な私は、しばらくすると嵐への熱がすっかり冷めてしまった。

けれど、今もテレビで嵐を見かけると微笑ましい気持ちになる。祖母の最期の日々を彩ってくれた人たちだから。

万が一、今後の人生の中でニノか相葉くんに会うことがあったら。

「ありがとう。あなたのおかげで、おばあちゃんは幸せでした」と伝えようと思う。

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