中国と朝鮮の自立
中華人民共和国の動乱
毛沢東の動向
◎ソ連との関係悪化
●中ソ友好同盟相互援助条約(1950)
→建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」をうかがうという情勢の緊迫があり、ソ連も1947年3月のトルーマン=ドクトリンによって東西冷戦が明確になり、アメリカとの全面的な武力対立に備えなければならないという事情があった。
●中ソ論争
→革命観の違い、戦略論の違い、国際政治上の意見の対立などが目立ち始めた。きっかけは1956年のソ連のスターリン批判であり、平和共存路線をとるようになったことであった。
キューバ危機以降は公開論争へと発展(1960年代)
◎インドとの関係悪化
●チベット反乱(1959)
→中華人民共和国の支配下に入ったチベットにおいて、チベット仏教の僧侶や貴族がダライ=ラマ14世を擁した反乱を起こし、駐屯する中国人民解放軍を攻撃した。反乱の中心は社会主義化の進行を恐れたチベットの支配層で、伝統的宗教指導者ダライ=ラマを担ぎ出したものであった。
ダライ=ラマ14世はインドへ亡命。チベットの亡命政権を樹立した。
●中印国境紛争(1959~1962)
→インドの国民会議派政府のネルー首相は、ダライ=ラマ支持を表明し、インド軍を中国国境に進出させた。
結果としてインド軍が敗北。中国軍はチベットの反乱を鎮定し、ダライ=ラマはチベットに戻ることができなくなり、現在も亡命を続けている。
チベットでは1965年に自治区が発足したが、現在も中国からの離脱を求める動きがある。
毛沢東の失脚
◎大躍進(第二次五カ年計画)
→工業・農業の急速な発展を目指す
●人民公社
→ 農業の手段生産組織であるだけでなく、自給的な工業生産も行い、行政・軍事・教育においても基本の単位となる地域行政組織。
しかし、市場原理を無視して一部の農工業生産指標のみにおいて3年間でイギリスとアメリカを追い越すほどのノルマを人民に課し、杜撰な管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
非科学的な増産方法の実施、四害駆除運動で蝗害を招く、政策に反対する多数の人民を処刑死・拷問死に追い込んだため中国国内で大混乱を招き、中華人民共和国大飢饉(推定1500万〜5500万人が死亡)の発生、産業・インフラ・環境の大破壊、中華人民共和国最少出生数記録更新を招いた。
◎中ソ技術協定破棄
→中ソ対立により中国で仕事をしていた1390人の技術者を引き上げ、技術提供も停止すると通告。これに加えて大規模な自然災害が発生。大躍進は大失敗に終わる。
◎調整政策
●国家主席:劉少奇
→ 鄧小平による補佐
毛沢東の尻拭いをする必要があった。資本主義経済の仕組みを導入したことで農業生産力が回復。
中国の暗黒時代
プロレタリア文化大革命(1966〜1977)
◎毛沢東による実権派の一掃
→劉少奇、鄧小平らを「資本主義の復活をはかる者」として批判。
●紅衛兵の結成(学生中心)
→毛沢東の影響を受けて全国各地で激しい闘争を行う
●「四人組」の横暴
→ 毛沢東の周辺で実権を振るった江青ら4人の上海グループ。運動を推進した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文の4人。こいつらに逆らうのは毛沢東に逆らうのと同じことだとして権力を掌握。
◎中ソ国境紛争(1969)
→ウスリー川に位置する島を巡って軍事衝突。核戦争に発展するのではないかとの懸念があった。
◎中国の国連代表権交替
→ソ連と対立しているためアメリカが歩み寄ってきた。その見返りで中華民国→中華人民共和国に国連代表権を交替した。
●ニクソン訪中(1972)
→アメリカは中国を事実上承認。米中共同宣言(上海コミュニケ)を発表。
●日中国交正常化の発表(1972)
→田中角栄内閣のとき。
中国では1949年、大陸部を制圧した中華人民共和国が成立していたが、日本はアメリカに追随してそれを承認せず、台湾の中華民国政府を中国の正当な政権としていた。
1950年、朝鮮戦争が勃発したことを受けて、アメリカは日本を西側陣営に組み込むため、戦後の日本の連合国との講和会議である1951年のサンフランシスコ講和会議を召集した。しかしそれには中華人民共和国・中華民国いずれも招待されなかったため、日中国交回復はなされなかった。
一方翌年には日本は台湾政府との間で日華平和条約を締結、中国共産党政権下の中華人民共和国とは国交のない状態となった。
中国の躍進
◎周恩来と毛沢東の死(1976)
→プロレタリア文化大革命は事実上終了
●華国鋒
→共産党主席(首相も兼任)に就任。「四人組」も逮捕する。
「プロレタリア独裁下の継続革命は偉大な思想」と毛沢東路線を讃えると同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとして「第一次文化大革命が勝利のうちに終結した」と宣言
◎「四つの現代化」
→農業、工業、国防、科学技術の近代化を目指す。文化大革命後における新しい目標。中心となったのが鄧小平。華国鋒に代わって1981年に実権を握り、改革開放路線を明確に歩み出した。
大国としての中国
改革解放政策の進展
◎鄧小平の時代
●人民公社解体
→農村部に生産責任制を導入(生産請負制)
一定数量の農作物を国家に上納するが、それ以外の余った農作物については農民が自由に処分してよいこととなり、自由市場に農作物を販売してよいことという取り決めがなされた。
●社会主義市場経済の導入
→経済特区の指定。社会主義のもとで市場経済を導入する経済体制。
経済の自由化が進むにつれ貧富の差が拡大。また、共産党政権を批判する言論の自由や、結社の自由は認められなかったため不満が高まる。
◎第二次天安門事件 (1989)
→民主化に理解のあった前総書記胡耀邦が急死し、学生・市民が彼を追悼するために天安門広場に結集して大集会を開催、政治の民主化・言論の自由などを要求。
鄧小平は戒厳令を布いて学生に解散を迫り、戒厳部隊を北京市内に突入させ、天安門に向かう街路で戦車、銃によって学生・市民に発砲し、多数(実数は不明だが少なくとも千人以上)の死者がでて、運動は弾圧された。
●鄧小平死去 (1997)
◎江沢民の時代(1989~2003)
●香港返還(1997)
→イギリスより返還
●マカオ返還 (1999)
→ポルトガルより返還
これらの領土はイギリス・ポルトガルの制度をそのまま継承している。
台湾の行方
◎蒋介石の時代
→1949年に台湾に移った。親米的な外交を展開。
●日華平和条約の締結(1952)
→中国はサンフランシスコ講和会議(1951)に参加できなかったので個別に結んだ。(アメリカは中華民国を、イギリスとソ連は中華人民共和国を代表と認めていたため意見が合わなかった)
1972年に日中国交正常化したために無効となった。
●米華相互防衛条約の締結
●中国の国連代表権交替 (1971)
→アメリカとの国交断絶
蒋介石死去 (1975)
◎李登輝の時代(1988〜2000)
→台湾の民主化が進展。中国本土との対立が深まる。1996年には台湾で最初の直接選挙による選挙で総統に選出。
朝鮮半島の分断国家
韓国の戦後復興
◎朴正熙(1963~1979)
→韓国軍部クーデタで実権を掌握し開発独裁を行う。
※開発独裁
→貧困から脱するには工業化が必要であるという世論を背景に工業化を政策の最優先課題に掲げ、それに反対する勢力を抑圧する政治のあり方。韓国の朴正熙、フィリピンのマルコス、インドネシアのスハルトなどが典型。
●日韓基本条約 (1965)
日本と韓国の国交正常化。アメリカがベトナム戦争の本格化でお金を使わなければならないため、韓国の支援を日本にやってもらおうとした。
また、ベトナム戦争に際して韓国軍は米軍に協力。見返りとしてアメリカは多額の資本を韓国に投入し、その経済成長を助けた。日韓基本条約も日本の経済支援を得る目的があった。
●朴大統領暗殺(1979)
80年代以降の韓国
◎盧泰愚(ノ・テウ、1988〜1993)
→軍人出身だが選挙で選出された最初の大統領。民主化宣言を行う。(退任後に収賄などの不正を追及され、有罪となって収監)
●ソウルオリンピック開催(1988)
●南北朝鮮が国連同時加盟 (1991)
◎民主政治の進展(1990年代)
●金泳三(キム・ヨンサム、任1993〜1998)
→初の文民政権。
●OECD加盟(1996)
●アジア通貨危機(1997)
→韓国・インドネシアなどに広がった通貨下落。
ヘッジファンドとよばれる投資家グループが、タイ経済の先行きの悪いことを見通し、一気にバーツ売りに走ったため。バーツは変動相場制(東南アジアの通貨は当時は固定相場制だった)移行を宣言。
◎金大中(任1998〜2003)
→朴正煕軍事政権の独裁政治に反対する民主化運動を指導した人物。
●太陽政策 (包容政策)
→対北朝鮮友好政策。凍りついている北朝鮮の姿勢を、韓国側の熱意ある働きかけで溶かすことができる、という意味。
●南北両朝鮮首脳会談(2000)
→金正日との会談。これによりノーベル平和賞受賞。
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