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補講3:アイルランド史

ケルト文化とカトリック文化

ケルト文化

ケルト人
→ローマがアルプス以北に進出する以前からのヨーロッパの先住民族。鉄器文化の段階に達しており、独自の美術様式や宗教を発達させていたが、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に残るだけになった。
 前5世紀ごろ、大陸から渡来。アイルランドに鉄器文明をもたらす。ローマでは十二表法が出来たくらいの年代。
ドルイド
→ ケルト文化における司祭・僧侶。司祭を中心とした独自の文化をもつ部族社会を形成。
ゲール人
→ローマ人から見たアイルランド人の呼称。直接支配を及ぼすことはなく、その後もアイルランドの先住民族をゲール人、その言語をゲール語と呼んでいる。

カトリックの受容

聖パトリックの布教(5世紀初頭)
→北東部のアーマーを中心に布教活動を展開。今でもアイルランドの守護聖人とされ、彼を偲ぶ3月17日はセント・パトリック・デーといわれ、現在もアイルランドの国民的祝日とされている。アメリカでも「みどりの日」としてシカゴでは、シカゴ川をフルオレセインで緑色に染め上げる風景が見られる。

聖パトリック

アイルランド修道院(5世紀末)
修道院長:コーマック
→パトリックの弟子の一人。以後2世紀にわたってアーマー教会の長は修道院長と司教を兼ねることとなった。

修道院文化
→西ヨーロッパのキリスト教国のなかでアイルランドは修道院が教会を支配した唯一の国となった。その後もアイルランドでは独自の修道院文化が発達し、古典の筆写や研究が盛んに行われた。またアイルランドには、各地に独特の円環をもつ石造の十字架が多く残されているのも修道院文化の遺物である。

ローマとの関係性

ヒベルニア
→ローマ人から見たアイルランドの呼称。ローマに属することはなかったものの、影響を与えていた。
ただローマ側が侵攻したのかどうかは研究段階とのこと。

初期中世時代(795〜1167)

ヴァイキングの侵入と派閥闘争

ヴァイキング
→9世紀ごろに侵攻したノルマン人の一派。ブリテン島と違い、ローマの支配も直接は及ばず、ゲルマン民族の大移動期の侵入も受けなかったが、この時侵入を受けた。ただ支配は一時的なもので、ブリテン島のような永続的なものではなかった

◎都市の形成
ダブリン、ウェックスフォード、コーク、リムリックの街がヴァイキング支配のもと発展

◎アイルランド上王
→アイルランドはこの時5つの部族国家に統合され、その中で最も有力な王がアイルランド上王として宗主権を持つ。
ツアサ
→アイルランドに存在する半独立状態の政治単位。アイルランド全土統一を目指して各ツアサによる内乱が続いていた。

ブライアン・ボル
→アイルランドを初めて統一。

題材になってるボードゲームがあるらしい

中世後期

ノルマン人の侵入

◎レンスター王ディアムイド・マクモロー(Diarmuid MacMorrough)
※日本語カタカナ読み不明
→自身の王国を上王の連合軍に追放されていた
●ノルマン人部隊への要請
→王国奪還のためにノルマン人の協力を仰いだ。この時イングランド王ヘンリ2世の許可を得ている。レンスター王国は復興し、ダブリンとウォーターフォードがレンスター王の支配下に入った。

リチャード・ド・クレア(ストロングボウ)
→マクモローの養子になったノルマン人貴族。レンスター王国の後継者になったが、アイルランドにイングランドと相対するノルマン人王朝ができることを危惧したヘンリー2世が反発

アイルランド侵攻(1171)
ヘンリ2世が軍を率いてウォーターフォードに上陸し、アイルランド島へ上陸した初のイングランド王となった。自身の息子ジョンにアイルランドの支配権を与える。これがアイルランド卿領と呼ばれるものである。(もとはレンスター領)

その後ジョンがイングランド王になるとアイルランドとイングランドは同君連合になり、本格的に支配下に入る。1250年までにアイルランドの土地の75%ほどを支配。

ゲール化とイングランドの後退

エドワード・ブルース
→ゲール人の反イングランド貴族を味方につけてアイルランド上王に推戴され、アイルランドに侵攻した(1315)。アイルランドをイングランドから取り戻すことが目的
 結果として敗退し全土を支配されてしまう(1318)が、アイルランド貴族によるそれぞれの支配領域での権力は増したため、イングランドにとって脅威となる。

ペストの流行(1348)
→アイルランド人は田舎に住んでいるが、イングランド人やノルマン人の多くは都市部に居住していたため被害が甚大だった。ペストが去った後にアイルランド語とアイルランド土着の文化が一時的に勢力を取り戻した。この時期の英語圏はダブリン周辺のペイル地域のみに縮小している。

アイルランドのゲール化
→ヒベルノ・ノルマン人貴族はアイルランド語とその風俗を取り入れていた。彼らははOld Englishと呼ばれ、「本来のアイルランド人よりもさらにアイルランド的である」と言われた。以後の数世紀にわたり、彼らはイングランドとアイルランドとの対立の前面に立ち、カトリックの信仰を守り続けることになる。これが「アイルランドのゲール化」であり、イングランド側はこの傾向を危惧した。

 キルケニーで開催した議会においてイングランド人がゲールの服を着、アイルランド語を話すことを禁止したが、ダブリンにおける行政府の権威が小さかったためこの命令はほとんど効果をあげなかった

薔薇戦争(1455~1485)
→これによってアイルランドにおけるイングランドの影響力はほぼ消失した

◎キルデア伯フィッツジェラルド家
→イングランドの影響消失後にアイルランドの実権を握る。基本的にはイングランドと協力関係にある。

アイルランド反乱(1536)
トマス・フィッツジェラルド
→自分の父親がイングランド政府に殺されたと聞き、自分も同じようになると悟った。そこでダブリンのセント・メアリーズ修道院で評議会を召集し、王への忠誠を拒否することを宣言。アイルランド反乱へ。
彼の反乱はヘンリー8世にアイルランド問題に対する重要性を認識させ、アイルランド王国の成立に寄与した。

プロテスタント支配の強化

→イギリス国教会が成立し、さらにイングランド、ウェールズ、スコットランドがプロテスタントを受け入れたが、アイルランドはカトリック信仰を守っていた。

ヘンリ8世のアイルランド支配

テューダー朝同君連合(1541)
→ヘンリ8世がアイルランド国王を兼ねる。アイルランド卿からさらに支配を強めた形。
 形の上でアイルランドは独立した国であるがイングランドと同じテューダー朝の国王の支配を受けるという、同君連合の形態となり、それとともにイングランドから盛んに移民が行われた。しかし、アイルランドには国教会はなかなか浸透せず、宗教面ではカトリックが依然として有力なまま続いていた

◎北アイルランドの宗教対立
ロンドンデリー
→北アイルランド(アルスター地方)の北西部のデリーにロンドンの富裕な商人が多数移住しロンドンデリーと呼ばれるように。ヘンリ8世時代以降の移住者 New Englishと呼ばれ、プロテスタントであった。
 結果、北アイルランドではプロテスタントが多数派になり、カトリック教徒は少数派として迫害されるようになった

イングランドによる支配権拡大にはその後、100年余りの時間が費やされた。

クロムウェルの征服と植民地化

アイルランド同盟戦争(アイルランド革命)(1641~1653)
→カトリック教徒がアイルランド支配を一時的に取り戻した戦争。スコットランド反乱(主教戦争,1639)の影響で支配権が弱まっていた
●中心:キルケニー同盟
→アイルランド自治を行ったカトリック勢力

最初はアイルランド側優勢だったが、クロムウェルの上陸で劣勢に。

クロムウェル
→アイルランドが王党派の拠点になっているとの口実でアイルランドを征服し、植民地とした。(1649)
その後、アイルランドでは、イギリスからの独立運動が激しく展開されることとなる。

ウィリアム3世
→名誉革命後のイングランド王。しかしカトリック信仰の強いアイルランドでは彼を王として認めず
ジェームズ2世の反撃
→名誉革命で廃位された王でカトリックを保護しようとしていた人。アイルランドに赴き、反ウィリアム勢力を結集して挙兵。ウィリアム3世はオランダ軍を率いてアイルランドに出兵。
ウィリアマイト戦争(1689~1691)
→ジェームズとカトリック軍を破った。ウィリアム3世のプロテスタント軍はその後もアイルランド各地を転戦してカトリック勢力を蹂躙した。

これによりイングランドのアイルランド支配が完成

カトリック抑圧

→18世紀には一連の「カトリック処罰法」が制定されアイルランドのカトリック教徒は徹底的に無力化された。アイルランド語は使用できず、その文化・伝統は否定され、カトリック教徒は大学に行けず、医者にも弁護士にもなれなかった。土地も所有できず小作人として暮らすしか無かった。カトリック農民は5ポンド以上の価値のある馬を所有することも出来なかった。

◎アメリカ独立戦争(1775)の影響
→1775年に勃発したアメリカ独立戦争の対処に追われたイギリスは、アイルランドに対して強硬策がとれなくなった
ヘンリー・グラタン
→イギリスとの貿易不均衡の改善やアイルランド議会の尊重を訴え、事実上立法権を回復させるなど、アイルランド議会の地位を向上させた。また、フランス革命の影響もあり、独立の気運が高まっていた。アイルランドで高まったフランス革命への共感は、フランスと対立するイギリス政府の大きな懸念材料となり、その解決策としてアイルランド併合が指向された。

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立(1801)
→カトリック教徒解放法の制定を公約に併合。アイルランドは国外植民地としての自主性も失い、完全にイギリスに併合されたことになる。

イングランド併合時代と独立

審査法の廃止(1828)
→カトリック教徒を除く非国教徒の公職就任が可能。主にプロテスタント向け。
カトリック教徒解放法(1829)
オコンネルらの尽力、カトリック教徒の公職就任を認可。

ジャガイモ飢饉(1845~1849)
→アイルランドからのアメリカ合衆国などへの移民を促進させる原因となった。飢饉以前に800万人を数えた人口は、1911年には410万人にまで減少している。また、同化政策によってアイルランド語の使用率が減少し英語が用いられるようになる

チャールズ・スチュワート・パーネル
→自治同盟を結成した大地主。グラッドストンと協力して1886年と1893年の2度にわたり自治法導入を図ったが失敗。

アイルランドの分裂

◎アイルランド民族主義者(ナショナリスト
→自治を求める派閥。多数派。
ユニオニスト
→イギリスへの帰属を求める派閥。プロテスタントが多い北東部ではユニオニストが多い

イースター蜂起と独立戦争

→第一次世界大戦の勃発に際してイギリス議会はアイルランド自治法を成立させたが、当初この大戦は短期戦に終わると予想されたため、施行は一時停止された。大戦が終結するまでにイギリス政府は2度にわたり法律の履行を試みたが、アイルランドではナショナリストとユニオニストの両者ともにアルスター地方の分離に反対した。

イースター蜂起(1916)
→ドイツの支援を受けたアイルランド義勇軍による。不十分な計画のまま開始されたダブリン市内での蜂起は英軍によりただちに鎮圧されたが、英軍の軍法会議により首謀者が即刻処刑されたため、蜂起を企てたナショナリストへ同情が集まった。徴兵の導入が検討されるようになると、ナショナリストへの支持がさらに増した

アイルランド総選挙(1918)
→イースター蜂起に関与したとされたシン・フェイン党の圧勝。
●独立宣言(1919)

英愛戦争(1919~1921)
→国際法上はイギリス統治下にとどまっていたことに不満を持つナショナリストはアイルランド駐留英軍に対してゲリラ攻撃を行った。
休戦条約の締結(英愛条約,1921)
北アイルランドを除くアイルランド全土がイギリス連邦に加盟する自由国となる。今日の北アイルランド問題の根幹。

独立後

アイルランド内戦(1922~1923)
→アイルランド国内のナショナリストたちは条約賛成派条約反対派に二分された。北アイルランド問題が残っていたことが原因。

◎自治領から実質的な独立国へ
→この時点では独立といえども、まだ自治領であり、イギリス国王に忠誠を誓い、国王代理の総督が駐在するというイギリス帝国の一部であった。カナダと同じような国際的な地位を獲得しながら、外交、貿易などでの実質的支配権を確立しようと努力。
●統一アイルランド党(フィン=ゲイル)
首相:コスグレイヴ(任1922~1932)
→イギリスと妥協しながら実質的な独立を実現すべく工業の振興を行った。1923年には国際連盟にも加盟

ウィリアム・コスグレイヴ

ウェストミンスター憲章(1931)
→イギリス連邦内の各自治領が本国と同じ権利を持つようになった。

デ=ヴァレラ首相(1932~やったりやめたり~1973)
→アイルランド共産党(フェアナ=フェイル)の党首。世界恐慌の影響で共産党への支持が集まった。

※20世紀初頭のアイルランド独立運動を指導し、アイルランド内戦では英愛条約反対派の中心人物であった。最高評議会の第2代議長、初代ティーショク(1937年以降のアイルランド首相の名称)、アイルランド大統領を2期(1959年 1973年)務めるなど、生涯にわたってアイルランドの政治的要職を歴任した。その一方で教育者・数学者としての顔も持ち、1922年から死去までアイルランド国立大学の総長職にもあった。一貫して完全独立を目指していた

エイモン・デ・ヴァレラ

◎国名をエールに変更(1937)
アイルランド憲法制定によるもの。第二次世界大戦中は中立を維持。また、イギリス国王の代理という位置づけだった総督を廃止し、大統領を置いた。さらに、北アイルランドも国土として含むとした。

共和制国家アイルランドの成立が宣言され、イギリス連邦から離脱(1949)
→冷戦中も中立を保ち、1973年にはECに加盟

北アイルランド紛争

IRAの武力闘争

アイルランド共和国軍(IRA)
→アメリカの公民権運動などに触発されて北アイルランドにおけるカトリック信者の平等な権利と自由を求める運動が高まっていた。その運動の中心がIRAになる。北アイルランドでのカトリック解放を目指す
武装闘争の開始を宣言(1969)
→テロを開始し、北アイルランド紛争へ。

首相暗殺未遂事件(1984)
サッチャー政権下で厳しい弾圧が行われ、紛争がエスカレート。

関係改善
→EC加盟(1973)しその後EUになった時にアイルランド経済は急速な成長を見せている。それは貧乏国だったアイルランドが、EUからの多額の援助金が得られたという理由があり、アイルランドはEU諸国の中で、加盟の恩恵を最も強く受けた国でもあった。

 また、アイルランドと北アイルランドの国境も自由に行き来できるようになり、北アイルランド紛争も事実上無意味に。イギリスとの関係も改善された。

現時点(2024)での北アイルランド紛争

ブレア政権(労働党)
●北アイルランド和平合意(1998)
→IRAが武装解除に応じる。

トニー・ブレア

◎イギリスのEU離脱(2016)
→アイルランドはEU残留になったため国境の自由な行き来が不可能に。交渉の末2020年に自由貿易協定の締結や入管手続きなどを復活させて大筋合意

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