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冷戦の時代


第二次世界大戦後の欧州

西ヨーロッパ世界

イギリス
アトリー内閣(任1945~1951):労働党
→イングランド銀行や石炭関連など重要産業の国有化や、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会福祉制度の充実を図る。

クレメント・アトリー

エール、イギリス連邦離脱
アイルランドと改称

フランス
第四共和政(1946~1958)
→①国民公会②二月革命後の臨時政府③ナポレオン3世後の臨時政府
→議会制内閣を採用。フランス共産党が勢力拡大

イタリア
●王政廃止
国民投票で王政が廃止され共和政へ。
●イタリア共産党
西欧最大の共産党

東ヨーロッパ世界

人民民主主義
→西欧型のブルジョワ民主主義とソ連型の共産党独裁体制のいずれも批判し、人民戦線形式の政権運営を目指した。
●ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア
→ソ連の力でナチス勢力を排除。ソ連の言いなり。
ユーゴスラビア 指導者:ティトー
→大戦中、パルチザン部隊で自らナチス勢力を排除した実績があるためソ連の言うことをそこまで聞かない

◎「鉄のカーテン」演説
●イギリスの元首相チャーチル
→シュテッティン(バルト海)からトリエステ(アドリア海)にかけてソ連が鉄のカーテンを下ろしてると表現。

冷戦の始まり

アメリカの対ソ政策

資本主義陣営(アメリカ中心)

トルーマン=ドクトリン(1947.3)
→ソ連の影響が及ぶ前にギリシア・トルコを援助。両国の共産主義化を阻止。
マーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画、1947.6)
全ヨーロッパを対象とした経済援助を表明

社会主義陣営(ソ連中心)
コミンフォルム(共産党情報局)の発足(1947.10)
→当初参加したのは、ソ連・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロヴァキアユーゴスラヴィアの東欧諸国の共産党(党名は国によって異なる)と、フランス共産党・イタリア共産党の西側諸国の共産党を加えて9国の共産党。
ユーゴスラビア除名
理由は以下の通りとされる。

 ユーゴのチトーとブルガリアのディミトロフがソ連のスターリンに知らせず、勝手にドナウ諸国関税同盟構想を推進したことだとされている。48年2月、両国の代表がモスクワに呼びつけられ、ドナウ諸国関税同盟ではなく、ユーゴとブルガリアによる南スラヴ連邦を即座に形成するよう指示された。1913年の第2次バルカン戦争後、ギリシア・ブルガリア・セルビア(ユーゴ)の三国に分割されていたマケドニア地方の統合問題の解決策として、ユーゴは44年11月からブルガリアに呼びかけて南スラヴ連邦を形成する試みを行っていた。しかし、この時点で即座に連邦を作るのは困難だとの判断から、ソ連の提案を拒否した。

<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.114>

 このようにソ連とユーゴの提案は決定的に対立していたわけではなく、結局、ティトーがスターリンの面子を汚したということであろう。スターリンとしては社会主義国家建設において本家ソ連の指示を受けずに独自路線をとろうとするユーゴスラヴィアを許せなかった。
 ここから各国共産党による独自の社会主義への道といった路線は退けられ、ソ連による「与えられた社会主義」の建設が始まった。こうして「ソ連・東欧圏」が確立し、東欧諸国では反ソ的、反スターリン的な指導者は「ティトー主義者」として粛清されていった。

資本主義陣営の動揺

チェコスロヴァキア=クーデタ(1948.2)
→マーシャル=プラン受け入れ拒否を主張した共産党がクーデタを起こし当時の大統領が辞任共産党政権が発足
西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約、1948.3)
→イギリス、フランス、ベネルクス三国の計5か国により構成。クーデタをうけて共産党の拡大に備えた。

チェコスロヴァキアが東側陣営に組み込まれた

両陣営の軍事ブロック

東西ドイツの対立

西側管理地区通貨改革の実施(1948.6)
→新通貨ドイツマルクを発行、自由価格制を敷く。元々使っていたライヒスマルクは大戦を通して暴落していた。西側はソ連が占領地域で土地改革を実施し、社会主義化を進めていることに不信感を持ち、西側占領地域だけの通貨改革に踏み切ったため、両陣営の対立がエスカレート
●ソ連のベルリン封鎖
→西ベルリンへの交通を遮断。西側陣営は空輸で対応。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)
●首相:アデナウアー(任1949~1963)
→「奇跡の経済復興」を遂げる。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)
→経済改革が進まず復興が遅れる。

アデナウアー

東西両陣営の軍事対立

ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)の発足(1948.4)
→マーシャル=プランの受け入れ機関として発足
コメコン(経済相互援助会議、COMECON)の発足(1949.1)
→ソ連と東欧社会主義6ヵ国がマーシャル=プランとOEECに対抗

北大西洋条約機構(NATO)の発足(1949.4)
→アメリカを中心に12ヵ国加盟、西ドイツも再軍備して加盟した。

◎ソ連の核実験
→世界で二番目に成功
ワルシャワ条約機構の発足(1955.5)
→ソ連を中心に作られた軍事同盟。西ドイツの加盟に反発して組織。

 これによって冷戦体制の二大軍事同盟の対立という図式が完成したと言えるが、同時に互いに相手を無視することはできなくなり、共存せざるを得ないことが自覚されたことを意味する。当時ソ連は1953年にスターリンが死去して集団指導体制に入っており、翌56年にはフルシチョフによってスターリン批判が行われて、アメリカを完全敵視あるいは無視といった態度を改め、平和共存が模索されることになる。

中国と朝鮮半島の冷戦

中国国民党と共産党の対立

国共内戦(1946.6~1949.10)
●中国共産党(指導者:毛沢東)
→地主の土地所有を廃止。これにより農民からの支持を拡大
●中国国民党(指導者:蒋介石)
→国共内戦に敗北。中華民国政府を台湾へ移す。

中華人民共和国の成立(1949)
首都:北京
●国家主席:毛沢東(任1949~1959)
●首相:周恩来(任1949~1976)
→毛沢東が権力を握る。
中ソ友好同盟相互援助条約(1950)
日本を仮想敵国とした軍事同盟。建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」をうかがうという情勢の緊迫があり、ソ連も1947年3月のトルーマン=ドクトリンによって東西冷戦が明確になり、アメリカとの全面的な武力対立に備えなければならないという事情があった。
●中華人民共和国の承認
→建国直後にソ連、東欧、インドが承認

土地改革
→大地主から土地を没収。
第一次五カ年計画(1953~1957)
→ソ連の援助を受けて実行。重工業の優先、農業の集団化。土地改革で土地を得たもののすぐに集団化させられてしまった。

1951~53年の朝鮮戦争に参加して、アメリカ軍と直接交戦し、軍備での遅れが明確になったことで、アメリカ帝国主義との戦いに備える軍事力の基盤としての社会の近代化を急がなければならないと意識。

朝鮮半島の分割占領

→第二次世界大戦・太平洋戦争の終結、日本の敗北によって朝鮮は独立を回復。日本支配下で独立運動を続けていた呂運亨を中心に建国準備委員会が結成され、国号は「朝鮮人民共和国」を予定した。ところが直ちにアメリカとソ連の対立が朝鮮に持ち込まれ、民族分断国家となってしまった。

◎米ソの分割占領
→北緯38度線を境に分割。
大韓民国の成立
首都:ソウル
初代大統領:李承晩
朝鮮民主主義人民共和国の成立
首都:平壌
初代首相:金日成

李承晩
金日成

東南アジア諸地域の独立

ベトナムとフランスの争い

◎戦後のベトナム
●ベトナム独立同盟(ベトミン)
→指導者:ホーチミン(社会主義者)
ベトナム民主共和国の成立(北ベトナム)

ホーチミン

インドシナ戦争(1946~1954)
→フランスはベトナムの独立を認めず、ハノイでフランス・ベトナム両軍の衝突から本格的な戦闘を開始、ベトナム全土、さらにカンボジアラオスのインドシナ三国に拡大した。
ベトナム国の成立
→南ベトナムに位置。フランスがホーチミンに対抗して建国させた傀儡政権。
首都:サイゴン
主席:バオダイ
●ディエンビエンフーの戦い
→フランス軍が大敗。

アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。

ジュネーヴ会議(1954)
→ジュネーヴ休戦協定…北緯17度線を暫定的な軍事境界線とする
東南アジア条約機構(SEATO)の結成
→反共軍事同盟。ベトナムの社会主義化を警戒。アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタンの8ヵ国。

 これによってフランスはインドシナから完全に撤退することとなったが、替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出してきた。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された南北ベトナム統一選挙の実施を拒んだ。

ベトナム以外の東南アジア

◎東南アジアの諸東部
●インドネシア共和国独立
首都:ジャカルタ 
●スカルノ大統領(任1945~1967)
→インドネシア国民党

●フィリピン共和国独立
首都:マニラ

この2国の独立の前段階は以下の記事参照

◎東南アジアの大陸部(フランスからの独立)
●カンボジア独立
首都:プノンペン
●ラオス独立
首都:ビエンチャン
●マラヤ連邦
●ビルマ独立

南アジア・西アジアの独立

インド独立

◎インド連邦→インド共和国
首相:ネルー(任1947~1964)
→国民会議派

◎パキスタン共和国独立
総督:ジンナー(任1947~1948)
全インド=ムスリム連盟
◎スリランカ独立
→本来インドとして一緒に独立するはずの地域が分裂して独立してしまった。

◎第一次インド=パキスタン戦争(1947~1949)
カシミール帰属問題
→カシミール藩王国の藩王はヒンドゥー教徒であったのでインド帰属をめざしたが、住民の大部分を占めるイスラーム教徒が反発。インド軍優勢のうちに国際連合の調停で休戦。
●ガンディー暗殺
→そもそもこの問題の根本はイギリスにあるのだから、パキスタンとインドは争うべきではない。停戦を主張していたがヒンドゥー教徒の青年ゴードセーに暗殺された。ガンディーはインドが統一して独立するために他の宗教と少なからず妥協していたため、敬虔なヒンドゥー教徒からすれば弱腰な姿勢に見えてしまった。

西アジア諸地域の動き

イラン
→元々は親米・親英的なパフレヴィー朝であった。
●首相:モサデグ(任1951~53)
→石油を国有化(資源ナショナリズム)。イギリスの石油会社の施設を接取。
ここで米英が怒り、元々親米・親英の国王派のクーデタで失脚。

●国王パフレヴィー2世(位1941~1979)
→上からの近代化を推進。英米の支援による。
しかしここで貧富の差が拡大してしまった。

パレスチナ
→この地域には多数派のアラブ人と少数派のユダヤ人がいる。
アラブ諸国連盟の結成
→アラブ諸国民の主権の擁護と相互協力の促進を目的
パレスチナ分割案(1947.11)
→パレスチナ問題に手を焼いたイギリスは第二次世界大戦後、アトリー労働党内閣はついにパレスチナ放棄を決意し、成立したばかりの国際連合に「丸投げ」することとしていた。
 国連は解決を目指して「パレスチナを分割して、ユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家を建設し、聖地イェルサレムは国際管理下におく」という案を採択。
 しかし、少数のユダヤ人にパレスチナの半分を譲渡する内容だったためアラブ人側が反発
イスラエル建国(1948.5)
→ユダヤ人が分割案に基づいて建国。
パレスチナ戦争(第一次中東戦争、1948~)
→アラブ諸国がイスラエルに攻め入り開始。しかしイスラエル側を米国が支援するなどしたためイスラエル有利に進んだ。
 結果、イスラエルは国連分割案よりも広い土地を占領したまま、独立を確保した。1949年の休戦協定で定められた境界線を「グリーンライン」といい、これが現在まで国際的に認知されているイスラエルの領土である。
パレスチナ難民
→イスラエル領土が拡大した結果、100万人にのぼるアラブ人難民がヨルダンやレバノンに流出し国際問題に。

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