見出し画像

毒親育ちの友人関係


このnoteは、毒親育ちの明日に希望を届けるためのnoteです。





今回は、毒親育ちの友人関係について、取り上げたいと思います。



毒親育ちにとって友人と心地良い関係を作ることは、なかなか大変なことかと思います。



1 毒親育ちが友人との関係に苦戦する理由



毒親育ちは、友人との関係に苦戦することが多いと思います。
学生時代、悩んでいた方も多いのではないかと思います。



私も悩んでいました。友達が全くいないわけではなく、もちろん仲の良い子はその時その時、数人いました。でも、その友人たちとなんだか距離を感じたり、分かり合えないという思いを抱えていました。
周りを見ると、もっと楽しそうに友人と楽しんでいる人たちがいて、
なんで自分はそういう感じになれないのだろうと、よく落ち込んでいたことを覚えています。



大人になり、自分が機能不全家族で育ったということも含めて、自分がどういう人間かということがわかるようになった今、
私には、その理由がわかります。



私が友達とうまく関係を築けなかった、その背景には、いくつかの強烈な思いこみがあったのです。そして、その思いこみの起源は、親からの価値観の刷り込みにありました。



具体的には、以下のような思いこみです。



・自分なんて愛されるに値する人間ではないという思いこみ


・友達は周囲の大人から比較される対象であるという思いこみ



このことから、毒親育ちが友人との関係に苦戦する背景には、内容は私のそれと違っても、親から刷り込まれた思いこみがあるのではないかと思いました。



2 自分なんて愛されるに値する人間ではないという思いこみ




これは親との関係において抱いた考え方そのものでした。
まだほんの小さい頃から、私は、自分は存在しているだけで愛される人間ではない、むしろ親からも嫌悪されていると感じていました。



私の家庭は、手をかけないわけではなく、手をかけてくれる家でしたが、その手の掛け方が、ことごとく親本位だったように思います。



自分が機嫌が良い時は一緒に遊んだり、かわいいとか大好きとか言ってきますが、一度自分が機嫌が悪くなると、金魚の糞みたいについてこないでと言われたり、ベランダに出されたりするような状況でした。



親の機嫌次第でコロコロと変わる不安定な対応だったため、昨日喜ばれたはずのことをしても翌日には怒られる、昨日笑顔で受け入れてくれたはずのことをしても別の日には邪見にされる、ということが多かったのです。



怒られたり邪見にされた時、何か自分は悪いことしたのだろうかと、いつも考えていました。でも、具体的に何かしたというわけではないので、よくわかりませんでした。


そのようなことの積み重ねで、私は、所詮、自分は産んだ親からにさえ愛されない人間なんだ、という考えを強めていく他ありませんでした。幼児の頃は親に疑問を抱くことは全くありませんでしたから、自分の大好きな親はとても素晴らしい人間なのだと思っていました。その素晴らしい人間の親から愛されないということは、自分は本当に価値のない人間なのだと理解する他ありませんでした。



結果、私は、友人の懐に入っていく勇気が持てませんでした。
親にさえ愛されないような人間が、他人である友人に愛されるとは到底信じることができませんでした。



大人になった今思い返すと、自分と仲良くなろうと近づいてきてくれた人たちが、色々な局面で、何人もいました。



私がもっとその子たちと仲良くなろうと近づくことができていたら、その子たちのうちの何人かは今も親友といえるような存在になっていたのではないか、そこまでいかなくとも、もっと楽しい学生時代を過ごすことができたのでは?と後悔することも多いです。



でも、当時の私にはどうしてもできなかったのです。それにより、この子は自分と仲良くなりたいわけではなさそう・・・と相手が感じ、相手が離れていく・私は私で、あぁ結局離れて行ってしまった、私は愛される人間ではないんだという思い込みを強くしていく、そんな悪循環にはまってしまっていたように思います。



当時、私と仲良くなろうと近づいてきてくれた人たちには、本当に感謝しているし、本当に申し訳なかったと思っています。



3 友達は周囲の大人から比較される対象であるという思いこみ



これも親から刷り込まれた思いこみです。



小さいころから、とにかく周りと比較されてきました。
運動、ピアノ、人前で何かをする力、成績など・・・
そして、できないところ、足りないところばかり指摘されてきました。



そのため、自分より何かの面で優れている同級生等を見ると、
強い嫉妬心を抱くようになりました。
それと同時に、自分はなんて劣っているのだろうという自己否定の気持ちをどんどん強めていきました。



そして、そのようなことが続くうちに、人の能力の優劣ばかりが目に入るようになっていきました。能力の優劣ではない、人の長所や短所等が目に入りづらくなっていきました。そのため、人の性格や人間性に目を向けて関係を構築していったりすることができなくなりました。
他者を見るとき、優劣という物差しだけで見ることを教わったため、それ以外の物差しがあるということに気づくことさえ、大人になるまでできませんでした。



そして、同級生や周りの人は、大人から比較される対象であるという思いこみを強くしていった私は、周囲の友人に心を許すことや、自分の格好悪いところを見せることができませんでした。




今なら簡単にわかります。
人間は能力の優劣で決まるわけではないということ、人それぞれ得意なこともあれば苦手なこともあること、友人とはもちろんライバルになることもあるけれど支え合って応援し合っていけるものであるということ等。



でも、学生時代の私にはわかりませんでした。
親から受ける「比較」をクリアしていくしかなく、それに夢中になっているうちに、友人の人間性や性格にまで目を向けることができなかったのです。



きっと私がうらやましいと思っていた友人関係には、
「お互いの存在そのものを尊重する」という温かいものが流れていたのだろうと思います。



このような思いこみをもった私にもまったく友達がいなかったわけではありません。そのことをおもう時、当時、仲良くしてくれた人たちに対する感謝の気持ちがあふれてきます。




4 思いこみに気づいてからの友人関係



上記のような思いこみにより、私は友人関係に悩んできましたが、
そのことに気づいてから、私の友人関係は少しずつ変わっていきました。



昔は、自分が愛されるに値する人間ではないと思っていたため、
自分が与えられるものがないとダメだという強迫観念のようなものがありました。


そのため、授業のノートを貸したり、勉強を教えたり、お菓子をあげたり、ちょっとやりすぎでは?というようなサービスをして友人との関係を維持しようとしていました。そういうことをしない自分からは、友人は離れていくに違いないと思いこんでいたからです。



しかし、上記のような背景、私が友人関係で苦戦しているカラクリが理解できるようになってからは、そのようなことはなくなりました。
そもそも自分が無理してサービスをしないと維持できないような関係や、自分がどうも利用されているなと感じる関係は、勇気を出して断ち切ることができるようになりました。



そして、もっとリラックスして交流していけるような関係、もっと心温まる交流ができる関係だけが残りました。



すると、今度は不思議なことに、自然とその友人たちの役に立ちたい、友人ともっと喜びを分かち合いたいという思いが純粋にあふれてきて、
自分にとってまったく無理することなく、自分の得意なことで友人の力になったり、楽しい時間を分かち合ったりすることが自然にできるようになっていきました。


そして、友人との交流がより深まっていく、そんな好循環が生まれていきました。




5 これからの友人関係



このような経緯なので、私は友人が多い方では決してありません。
でも、これからも、友人との関係を大切にして、残りの人生を過ごしていきたいと思っています。



まずは今ある友人関係を心から大切にしたいです。
時間をかけて、そして時には手間もかけて、ゆっくり、関係性をより深めていきたいと思っています。



その上で、またこれからの人生で友人を作っていく機会に恵まれれば、
今度こそ、自分なんて愛されるに値する人間ではない・・・なんて言わずに、一歩踏み出していきたいと思っています。




6 毒親の友達観



そういえば、私は子ども時代、親に何度か、友人関係がうまくいかないことを相談したことがあります。
その時、毎回、決まって親は、「友達なんかいらない」と言っていました。
「友達なんていなくても生きていける」「そんなことで悩むな」「そんなに孤独が怖いのか」「寂しがりや」といった趣旨のことも言われました。



でも、絶対に違う気がしていました。それは、本で読んだ友情に関する知識や、悩みながらも不完全ながらも自分が友人と築いていた友情があったからだと思います。
「友達がいらないはずがない」という考えを信じて生きてきて、本当に良かったと思います。
もし私が、「親の言う通りだ、友達なんていらないや」という方向にシフトしていたら、今ある友人関係も、とっくになくなっていたはずです。



ちなみに、弊所に相談に来られる方たちの話を伺うと、「友達なんていらない」といった内容のことを親から言われている人が多いです。



私が思うに、毒親の「友達なんていらない」というのは、
友達が少ない、あるいは友達がいない自分を肯定するための強がりなのではないか、と感じています。
子どもが友達のことで悩んでいる姿を見ると、自分が友達のことで悩んでいる姿を見せつけられている気持ちになるのではないかと思います。
でも、自分が友達のことで悩んでいるなんていうことを認めたくない、認めることができないので、そこから目を背けるために、「友達なんていらない」と切り捨てているのではないか、と思うのです。



だから、親のいう「友達なんていらない」は、
真に受ける必要は全くないのではないかと思います。


でも、一方で、それを真に受けて信じてしまったとしても、
子ども時代のあなたには何の責任もないということも、
知っておいてほしいと思います。




以上、毒親育ちの友人関係でした。



時々、小さいころや学生時代のことが夢に出てきます。
そういう夢を見た時、いつも昔の同級生や友人のことを思い出し、
なんであの時もっとこうできなかったんだろう、
もっと仲良くしたかったな、
と自分を責めたり、後悔することがありました。



そこにヒントを得て、考察してみた内容です。



今回もお読みいただき、ありがとうございました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?