見出し画像

「選手の個性」と「品行方正」

最近、「スポーツ選手の人間性」についての議論をよく目にする。コロナ禍で選手の新たな一面が披露される機会もグンと増えたから、議論が選手個人の人間性について及ぶことも自然な流れなのかもしれない。

現代において「SNSでは炎上に気をつけましょう」はもはや社会の常識だが、スポーツ選手は人前に出るのが仕事のようなところがあり、今やSNSも選手業務の一環のような雰囲気もある。

選手がSNSを活用して応援してもらうためには「自分の特徴を出し、テンプレは避け、誠実に、誰も傷つけず、でもユーモラスに、そして炎上しないように発言すること」を求められたりする。かと思えば、セカンドキャリアだとかデュアルキャリアだとかのためには「ありのままの自分を見せた方が良い」と言われたりもする。

品行方正でありかつ人間的であれという感じだろうか。
「スポーツ選手の人格」というものは、いったい誰のものなのだろうか。

品行方正を求めたくなる背景

まず、なぜ僕らはこれほどまで何かに対して品行方正を求めてしまうのか。
それは僕らが育っていく過程であまりにも多くの「何であっちの方が評価が高いのか分からない」に遭遇してきたことに起因するように思う。

保育園のお遊戯会、小学校の工作展、中学校の内申評価、会社の人事考課、他社との競合プレゼンなどなど、第三者(先生や上司や取引先)から何かを評価されるとき「なんであの子の方が評価されるんだ」と思ったことは誰でも1度はあるだろう。

そんなとき僕らは「きっと実力以外に何か他の力―それはしばしば"お気に入り"とか"根回し"などと呼ばれる―が働いているんだ」と勘繰ることで評価されなかった自分を無理やり納得させたりする。でも、きっとどこかに正々堂々とした評価軸の品行方正世界があると切望している。それをスポーツの世界に見出している人は結構多い。

スポーツ選手が品行方正から解放されるために必要なのは「商品としての売り方のアップデート」

スポーツ業界最大のコンテンツは言うまでもなく「試合」だ。そして試合の大きな魅力の1つが「勝敗の過程―試合内容―がオープンになっている」ということではないか。勝敗の決定過程において競技力以外の力学が働かない、つまり第三者圧力による八百長やズルが無いということだ。

前述の"実力以外の何か"に遭遇したことのある人にとって「第三者の評価に影響されず明確なルールのもと勝敗を競う」という行為は、それだけで誠実さや清廉潔白さを感じさせる。そして、それが試合の構成要素である選手個人に対しても「品行方正で清廉潔白なものであるはずだ」という錯覚や希望に近い幻想を抱かせてきたのではないだろうか。「あんなにルールに誠実で一心不乱にボールを追いかける選手は人間性も優れているはずだ」といった具合に。

実際、クラブ側としても選手という商品を「"品行方正感"を推して陳列してきた」側面は強いだろうし、選手自身もその恩恵に与ってきた事実は完全には否定できないだろう。そうなれば観る側も"品行方正なもの"として受け取ってしまうのは当然な気がする。

しかし、その"品行方正推し"という販売手法がSNSの台頭によって瓦解しつつある。コートやグラウンド外での人間性までがセットで評価されるようになり、従来の売り方では通用しなくなってきた。それはつまり陳列棚の舞台裏も評価軸に加わったということで、例えば飲食店が料理だけでなく生産者の清潔さにも配慮しなくてはいけなくなってきたことと似ているかもしれない。

とすれば、このSNS時代においてスポーツ選手という商品が真に求められているのは実は「1点の曇りもない品行方正感」ではなく、舞台裏の人間味も含めてパッケージにした陳列方法、言うなれば「売り方のアップデート」なのではないだろうか。それはクラブ、選手、観る人、全員の課題のように思う。

現代は「スポーツ選手の人格論」の過渡期

現在スポーツ界でメインに活躍する層である20~30代は、中高生くらいの頃からネットやSNSが普及しだした世代だ。僕もまさにその世代なのだが、スポーツ選手を目指したくらいの年の頃には「SNSでの発言がプレーの応援是非にも影響する」などという未来は想像もしなかった。

10年前と現在とでスポーツ選手の人格分布的なものに何か大きな変化があったのかというとそうではないと思う。昔から品行方正な人もいればそうでない人もいたはずだ。ただSNSがその分布図を可視化したため「え、ここに分布してたら応援してもらえないの?」みたいなスポットが出てきた。選手自身が人格分布スポットを移動したわけではないので、急な評価変更に戸惑う選手も多いように感じられる。要は「そういう観られ方をする」ということに慣れていないのだ。

しかし、これから10年後のスポーツ界を担っていく選手たちは、今まさに「それが当たり前」の世界で育っている。現代はスポーツ選手人格論の過渡期で、これは観る側にも当てはまることかもしれない。

そんなことを言うと「じゃあ過渡期が終わるまでSNSなんてやらなければいい」という声も聞こえてきそうだが、そういうワケにもいかない。これだけエンタメが溢れ返った世界では、待っているだけでは誰にも見つけてもらえない。親指1つですべてにアクセスできる世界において何の発信もしないというのは、まさに座して死を待つようなものである。

今、スポーツ選手は従来の売り方が生んだ「プレー以外でも品行方正を求められる」ということや「選手活動にのみ集中することを求められる」という世界のなかで、スポーツ業界がエンタメ戦争に負けないよう、次世代にバトンを繋ぐべく、生みの苦しみと闘っているんじゃないだろうか。偉そうに言ってすみません。

(ちなみに:昔はなかなか個人発信の手段がなかったから「プレーは自己表現の手段」という考え方もあったと思いますが、今は分離されてきて、今後は逆転していくような気がしています。「自己表現が適切にできないとプレーできない」というのが近未来なきがしています。)

時代の狭間に生きるということ

今回は主にスポーツ選手の「人間性」について書かせていただいたんですが、現代は人間性だけでなく「生き方」自体も大きな変革期にあるんだろうなと思います。それはスポーツ選手に限らず多くの働く人に言えるかもしれません。

マニアックな話ですが、最近よく思い出すのが漫画「幽遊白書」で闘神・雷禅が語った「きっとオレたち魔族の一部が過渡期の突然変異で、将来の魔界のためには邪魔なのさ」といった趣旨の言葉です。もともと食人鬼だった雷禅は未来の世界(妖怪が人を喰わない世界)を見据えて自分も人を食べるのをやめました。未来を想像してそのとき在るべき姿に率先して自身を順応させていくというのはとてもタフで尊い行為ですね(残念ながら雷禅は生理的に順応できずに死んじゃうわけですが…にしても雷禅かっこいい…誰かと幽遊白書談義したい…)。

ところで僕は現在、プロチームの選手と経営者との2つの活動をしています。自分で言うのも何だか恥ずかしいですが、選手としても経営者としても実力は、周りと比べて優れている点を探す方が難しい程度です。そんな自分がこうして何とか活動できている最大の理由は、何といってもチーム(さいたまブロンコス)や会社(LEDONIA)の皆さんのご理解があることです。そしてこの状況もまた過渡期の突然変異なのだろうと思います。(どうか「いや、そんな選手は昔にもいたよ」なんて野暮なことは言わないで下さいね)

会社員を辞めると決めた2年前、正直その決断の理由がなんだったのかは自分でも全然よく分かっていませんでした。ですが日々少しずつ分かってきている気がします。詳しい話はまた別の機会に書けたらと思いますが、そこには僕なりの「未来の誰かために」があったように思います。厚かましい話なのですが。

さて、結局また自分の話が長くなってしまいました。でも僕個人のnoteなので許してほしいと思います。
実力不足だとしても、それでも自分の120%を出して、未来の在るべき姿に近づきたい。今自分がいる環境は、この過渡期に突然変異的に与えられた幸運なチャンスなんだと思います。全力で走って、次の誰かにバトンを繋げられたら嬉しいなと思います。

ご精読ありがとうございました。

嬉しいです!また書きます!^^