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【加奈陀・随想録】格闘技と私 「格闘技放浪記3」 長い氷河期から覚醒、ブラジリアン柔術の道へ

「放浪記2」を書いてから、だいぶ時間がたってしまいました。これは実際の時系列と合致しています。

法政大学2部体育会ボクシング部を、例によって「何事も達成せず」に退部してからというもの、私の人生コースに大幅な変更が加えられ、非常に長期間にわたって格闘技などと呑気なことを言ってはおれぬ状態が続いたのです。

すなわち、私は東京での生活に別れを告げ、カナダに渡ったのです。私が28歳の時でした。そこらへんの詳しい状況は、note にアップした「まだ元気なのに回顧録なんちゃって。。。」というバカ長い読み物に書いてあります。よほどお暇と興味のある方は、どうぞお読みになってください。

ほんとに30年ぐらいは格闘技なんてすっかり忘れた人生を送っていましたね。それが突然、昔、見た夢から覚醒させられるような出来事が起きたのです。

1998年の春でしたか、日本で総合格闘技が全盛期を迎えていたころ、修斗という格闘技の人気リーグの試合に、カナダから3人の選手が出場、その一人、ジョエル・ギャルソンが当時無敗の快進撃を続けていた佐藤ルミナに1本勝ちしたことが、カナダの全国紙のスポーツ欄でも報道されていたのでした。

当時、私はここトロントの日本語週刊新聞社で仕事をしていまして、この記事を見逃さなかったのです。早速、編集長に話して、この3人の選手を送り出したトロント近郊の総合格闘技ジムに取材に出かけたのです。この取材で、ジョエル・ギャルソン、カーロス・ニュートン、オマー・サルボサという、3人の総合格闘技ファイターと知り合ったこと、特にカーロスとオマーの二人との出会いが、私を長期にわたった「格闘技氷河期」から目覚めさせてくれたのでした。

カーロス・ニュートンは、修斗のほかにPRIDEにも出場し、「褐色のサムライ」のニックネームで人気者になりましたし、2001年には、米国のUFCの世界ウエルター級王者の座に就きましたが、半年後には前王者と再戦、僅差で敗れ、王座は返上しました。

日本語新聞での取材後、私はカーロスとすっかり親しくなり、同時に私の「格闘技病」が再発し、彼が練習に行く総合格闘技(主にブラジリアン柔術)の道場に通い始めるようになったのです。

そのころ、もう私は初期高齢者に入りかけのころでしたから、ブラジリアン柔術(BJJ)の激しい練習などは願い下げにしてもらって、ケガをしない程度に、というか、血気盛んなカナダの若者たちの遊び相手をしてもらったようなものでした。でも、BJJは明らかに柔道よりはケガの発生率が低いと思いました。ほとんど寝技中心で、相手からタップ(参った)を取ったらおしまいです。教わった技を繰り返し練習する範囲では、タップを取るとかということはありません。

ただ、柔道の乱取りみたいに、空いている相手と組んで稽古するときにだけ、あんまりムキになってやらなければ、ケガすることは、まずありません。

BJJをやっていた道場の連中は、いいやつが多かったです。カナダ生まれの若者も、外国から移住してきた若者も、みんな一緒になって、汗まみれになって、くんずほぐれつやっていると気心が知れてきます。ガタイのでかい連中とやるのはしんどかったですが、みんな、私の練習するときは、あまり力を入れず遊んでくれる感じで助かりました。

実際、BJJをやっていた時は、体重がかなり落ち、体がしまってきたと思いました。

あのころ、日本からワーホリでトロントに来ていた若者たちと知り合い、数人をBJJの道場に引っ張っていきました。彼らもすっかりBJJにはまりこんでしまいました。今でも東京で続けている若者がいます。

次の写真は、8年前にカーロス・ニュートンを相手に、私がボクシングの真似事を久しぶりにやってみた時のものです。カーロスも現役を離れて、だいぶ体重が増えてきています。

元UFC 世界ウエルター級王者、カーロス・ニュートンに遊んでもらった私。(8年前)


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