私は私の名前が嫌いだ

名前は時に性別を持っている。
例えば『郎』の字やら『子』の字やら。
会うまでもなく、確実に性別がわかる字。
それなりの人が持つだろうこういった字を自分も名前に持っている。

私は私の名前が嫌いだ。

名前の持つ性別が嫌いだ。
改名するほど厭っているわけではない。生活に支障もない。けど嫌いだ。
自分の性別は嫌いじゃない。異性になりたいわけでもない。正直どっちの性別でもいいと思う。

ただ、性別を自分の認識で決めてもいいこの時世で、自分で決めるまでもなく勝手に決定付けられた名前の持つ性別が、多分私は許せないんだ。

人は人を見る時、無数の色眼鏡をかけるだろう。この人は男だ。年上だ。独り身だ。立場は。
得てして、個人の本質ではなく、個人の肩書を『個人』と認識する人は多い。初対面なら尚更。この世に代替品のない存在はそうないので、個人もまた、個人であれど代えが利く。
肩書を見てかけられる色眼鏡は好まない。
かけられる色眼鏡は少なくあって欲しい。
勝手な色眼鏡で、勝手な個人像を作り上げられるのはたまったものじゃない。
そうして作られた個人像から逸れるようなことをすると、期待外れだったとでも言うように鼻白むのを知っているんだ。
性別なんて最たる例。嫋やかな男は嫌か。益荒な女は嫌か。
肩書きばかりを見て個人を見ないから、時に人は相手も同じ人間であることを忘れる。人は人だ。どんな立場を持てど人は人。全知全能の神にはならないし、誰もが聖人君子になることもできない。
人である限り間違いも犯す。迷うし、病む。なんだってする。

もちろん、そういった色眼鏡をかけられるのを承知でその場に立った者は多いだろう。でも失望されて揶揄されて、辛くない人はいない。

人は人だ。ただの個人だ。たくさんの色眼鏡で、元の色がわからなくなっても、色がなくなったわけじゃない。
時折でいい、色眼鏡を外してほしい。
人はきっと寛容になる。

私が私の名前を厭うのは、私の名前が性別を持つからだ。私が決める前から決められた性別が嫌だからだ。私がその性を受け入れて、色眼鏡で見られるのを承知していればまた違ったろう。
あるいは、人を色眼鏡で見ないことを多くの人が受け入れたら、名前なぞ私は気にしなかったかもしれない。

私は私の名前が嫌いだ。
名前の持つ性別を受け、私を型に嵌めようとする人が。型にはまらないことを許容しない人が。始めから型がなければ、許容される必要もなかった。
名は隠せない。

多分私は、名前と同じくらい、社会が嫌いなんだ。

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