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短編小説【レモンとうずら】

     茶色の瓶から注がれる琥珀色の液体を眺める。上出来だ、きれいな泡を作り心の中で自画自賛する。絵にかいたようなビールをしばらく眺めてから、レモンの乗っていない唐揚げを口にする。

「この唐揚げ、レモンがついてない・・・・・・」
 ちょうど一年前の妹の言葉がふと思い出された。あの日もこのお店の唐揚げにはレモンが乗っていなかった。
 普段ならレモンが乗って提供されるが、80歳を越えた夫婦が二人で営むこの小さな居酒屋は、「普段」と違ったものが提供されることも多い。けれどもそんなことを気にするお客さんはこのお店にはいない。私はそっとお母さんに声をかける。
「レモン、貰えますか?」
そうするとのんびりテレビを見ていたお母さんは元気に返事をしてくれる。
「いま収穫に行ってるから!」

 一年前のあの日、私は妹の美樹を初めてこのお店に連れてきた。普段はバイト代を握りしめて、一人でビールを飲みに来ていたけれど、この日は二十歳になった美樹からのおねだりで行きつけの居酒屋に連れていくことになったのだ。実家を出て以来、一年振りに会う美樹は、少し大人っぽくなり元来の美人さが際立っていた。
 美人で愛嬌のある美樹はすぐにお店の常連さんとも仲良くなった。二十歳のお祝いにと常連さんからなにか奢って貰うことになった美樹は、梅酒の炭酸割と唐揚げを頼む。
 届いた唐揚げにはレモンが乗っていなかった。美樹はかわいらしい顔をぷくっと膨らませる。
「この唐揚げ、レモンがついてない・・・・・・」

 目の前の唐揚げは既になくなっていた。ビールを飲み終えそろそろ帰ろう、とその前になにか締めのご飯を食べたくなる。ああ、そうだ。あの日は最後に中華丼を頼んだ。美樹と二人で一つの中華丼を食べた記憶がある。美樹は満面の笑みで一つしか入っていないうずらの卵を口に含む。美樹が笑顔を見せれば、そんなことくらい許されてしまうことを本人も知っているのだ。
 今日は自分だけなので食べきれるかが少し不安だったけれど、せっかくだからと中華丼を頼んだ。届いた中華丼は色とりどりの野菜やお肉が入ったあんがたっぷりとかかっていて、その一番上には可愛らしい卵が乗っている。

 あの日以来、美樹とは会っていない。私は一度家に帰り美樹の家に向かった。なぜ実家を出てまでわざわざ私の家から歩いて行ける距離に越してきたのだろう。少しお酒の入った頭で考えても答えは出なかった。
 母から預かっていた合鍵で部屋に入る。この合鍵を使うのは初めてだった。心配性の母が、美樹の一人暮らしを気にかけてやって欲しいと私に渡したものだ。
 美紀は既に寝ていた。もう深夜だった。私は美樹の家のキッチンに小さな小さな卵を置いた。

 数日後、実家の母から電話が来るだろう。色のない卵は静かに火を灯すのだ。

また会いましょう。