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旅エッセイ【いえすとファイフティー】

 旅行は好きではあるが、旅行をしているつもりはあまりない。
 ただ新しい土地に向かう。せっかくだからと観光地のひとつふたつ訪ねてみる。けれども収穫がない。ふむ、と思うだけである。ときたま案内などを読んで、ふむふむ、と思うこともある。
 建築や文化などを享受するほどの教養も感性もないのだから、そんなところに行っても仕方がない。結局、町の外れの安い宿に泊まり、数日に1度ふらふらと散策するだけになる。

「ここは観光客向けでいただけない」
「ここは地元の人がたくさんいるのだから、いい店に違いない」
そういうものか、と思う。ここでもまた私は、ふむ、と思うだけなのだ。

 街の定食屋に行き人差し指を立てて「わん」と言う。定食屋のおにいちゃんは少し困った表情で、けれども定食屋の笑顔で答える。
「ヌードル、オーケー?」
「いえす」
「ポーク?」
「いえす」
「スパイシー?」
「いえす」
あれだけ勉強させられた英語など何の役にも立たぬと学生の頃の先生方の顔を思い出す。思い出せない。
 バイト先の先輩の言葉なら思い出せる。
「女は愛嬌。女は我慢。このふたつだけでいいんだから」
  あれから10年が経つ。いまだに後者は会得できそうにないが、前者は何かと役に立つ。しかし、それが役に立つのは女だけなのだろうか。少し得をした気持ちで考える。

 ここの前の土地に着いた時、どうしても宿が見つけられなかった。重い荷物を引きながら、宿があるはずのあたりをしばらく右往左往していると、次第に顔は汗まみれになり、服の色も変わっていく。
 宿などはもはやどうでもよい、とりあえず座りたい。涼しいところはないものかと見回しても、驚く程になにもない。車と、木と、家。仕方がない。「町の外れの安い宿」に向かっているのだ。
 また来た道を引き返してみる。すると、前方から歩いてきた若い女性がこちらに寄ってくる。宿の場所を訪ねようとそちらに向かうため、スーツケースをぐいと引き寄せる。すると女性は私のぐいに合わせ笑顔で「アイヤッ」と言いそのまま通り過ぎる。
 しばらく経ち、今度は年配の女性が近くを通り過ぎようとする。英語は通じるだろうかと少し不安になりながら、話しかけようと考える。すると女性は優しい笑顔で言う。
「ビュウティフール」
 汗まみれの今にも倒れそうな外国人にかける言葉が見つからなかったのだろうが、それにしても他に適切な言葉はなかったのか、と笑顔を返す。

 さて出された名も分からぬ料理を平らげ財布を見せる。先程のおにいちゃんが顔の横に手を広げ笑顔で答える。
「ファイフティー」
どんな茶が出てくるのかと座ったまま少し待つが、なにも出てこない。店員が怪訝な笑顔をしてこちらを伺うだけなのである。笑顔のにらめっこの末、こちらが負けた。なんだ、男の愛嬌も役に立つでは無いか。50と書かれた札を渡し、席を立つ。

 昼ごはんを含めて30分程度の散歩。疲れてしまったので、今日は宿に帰るとしよう。やはり旅行はいい。余所者に向ける顔は常に優しい。

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