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【いちごる読書note】『弓と禅』とゴルフの共通点

弓と禅

この本を手にしたのは、23年8月半ばに読んだ『コーチングのすべて』という本の中で参考文献として紹介されていたことが、直接的なきっかけであった。ただ、その前段階として、例えば『社員をファーフィンに行かせよう』というパタゴニア経営者自伝の中で、「経営とサーフィンは似ており、サーフィンと禅は似ている」と言った趣旨の記述があり、この辺りから自分の興味の中に入ってきていたようだ。

本書は、(amazon等のレビューにある通り)日本的な文化・考え方にやや誇張表現があるようにも思えるが、筆者のオイゲン・ヘリゲル氏が、日本で弓道の師匠に師事して、弓道を会得する中で学んだ「禅精神」は、僕自身がゴルフを通じて伝えようとしていることと、かなり類似しているように感じた。

また、最近薄々感じていた「本を読むとはどういうことか?」という自分の中の漠然とした問いに対して有益な示唆も得られたように思う。この辺りをnoteに残すこととする!


1.弓道(≒禅精神)といちごるレッスンの類似性

『弓と禅』は、禅の精神を、それを弓道を通じて学んだ筆者の体験をもとに説いたものである。この本を手に取るまで僕自身は「そもそも禅ってなんですか?」というレベルであったのだが、読み進めているうちに、その弓道の師が伝えようとしていること、その過程での筆者の証言の数々は、僕自身がゴルフレッスンで伝えているときに考えていることと類似する部分が多く、モノゴトの本質はつまるところ同じ、ということを実感した。

例えば、筆者がどんなに努力しても的に矢が的中しないときに、その苦悩を吐露した時の師の以下のコメント。

中(あ)たりということを頭から消しなさい! !たとえどの射も中らなくとも、弓の達人になることが出来ます。的に中たるのは、あなたの最高に高められた無心、無我、沈黙、-そうでなく、あなたがこの状態をどのように呼ぼうともかまいませんが―という状態の外的な証拠であり、確認にすぎないのです。達人であることにも、段階があります。究極に達した人にして初めて、もはや過つことなく外的な的中が出来るのです

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p133

これは、まさに僕自身が、最初のゴルフレッスン(体験レッスン) の冒頭に伝えること。

「ナイスショットよりも、ナイススイングを心がけましょう」

ということと、ほとんど同じことを言っている。

ナイスショットとは、すなわちボールに正しくヒットすることと、その結果として意図したところ(グリーン上に立ててあるピンの近く) にボールを止めることであるのだが、その「結果を求めた」ところで、それは実現しない。むしろ、意識してしまうがゆえに、心ひいては体が影響を受け、いつもできていたはずの動きができなくなり、想いとは裏腹にミスショットとなる。

逆説的ではあるが、ナイスショットをすること(結果を求めること)を意識の外において、ナイススイングを心がける(プロセス、もしくは「今ココ」を大切にする)ことで、結果的にナイスショットの再現性が高まることになる。これがすなわちヘリゲル氏のいうところの「外的な証拠であり、確認」であるといえる。

もっとも、ヘリゲル氏の言う通り、本来は「無心」「無我」の境地における話であるため、ナイスショットはおろか、ナイススイングを「意識」している時点で、まだその境地に達せてはいないのだが、それとて、この「ナイスショットよりもナイススイングを」ということの延長線上に訪れるものだと考えている。

また、"たとえどの射も中らなくとも、弓の達人になることが出来ます"については、僕のレッスンでいうところでは、「ロープが振れたらゴルフはできるようになる」ということに通ずる部分がある。すなわち、もはやゴルフクラブを持たずとも、またボールを打たずとも、きれいにロープが振れれば(最初はこれもすごく難しい)、早晩ゴルフスイング自体も整い、ナイスショットの再現性が高まっていく、と考えている。(的であるボールがなくとも、達人に近づける)

また、ヘリゲル氏が弓道を通じた禅の精神を体得しつつあったときに、師より「その感覚はどのようなものか」という趣旨の質問を受けた時のヘリゲル氏の回答。

私はそもそももはや何も理解していないのではないかと思います。最も単純なことすら、困惑させます。弓を引き分けるのが私であるのか、私をいっぱいに引き絞らせるのが弓であるのか、的に中てるのが私であるのか、的が私に中たるのか。(中略)これら全て―弓と矢と的と私とは、相互に絡まりあっていて、もはや分けることが出来ません。分けようという要求すら失せました。というのも、私が弓を取って射るや否や、すべてはあまりに明らかであり、はっきりしており、おかしい程単純なことですから。

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p141

これは、僕自身のレッスンで受講生が感じることと本質的に同じだと考えている。というのも、ゴルフを始めたばかりの多くの方は、小さなボールを、それと大して変わらない打面の大きさのクラブで打つという行為が非常に難しく思われるが、正しい方法に基づけば、やがてそれはそんなに難しくないと思えるようになる。もっと言えば、初めてクラブを握った人でも、場合によっては最初のレッスン中に「目を閉じてもボールが打てる」ケースもよくあることである。そういったときに受講生は必ず、「なんで当たるの~ ~?不思議~~~ 」といった反応になる。

受講生によっては、「なんで当たるのか何も理解していない」感覚になるかもしれないが、それがゴルフスイングというものなのである。

2.「本を読む」とはどういうことか?

また、本書を読む中で、図らずも「『本を読む』ということはどういうことか?」について、僕自身の中にあった漠然とした問いに対する自分なりの答えの方向性を見つけられた気がする。

本書における「禅の精神」の本質としてヘリゲル氏は以下のように記述している。少し長いが引用する。

日本人にとって、言葉はある意味に至る手段に過ぎず、意味はいわば行間にあって、その都度理解できるように言われたりするのではなく、経験した者によって経験されるしかないのです。日本人の論述は、言葉だけで理解するなら、思惟(しい)に慣れたヨーロッパ人にとっては、混乱しているといわないまでも、幼稚なように思われます。・・・中略・・・・。
このことは、欧米の研究者の仏教、さらには禅についての研究を見れば、最も広範囲に認められます。というのは、彼らがやっていることは、テキストに拠り、それを翻訳し、注釈し、文献的に確かめられた方法に従って、研究しているだけなのです。こうしたことを行ったとしても、「学問的に」徹底的に吟味されたテキストを現実に「把握した」と思い込んでいるだけで、何事も何者も現れてはいないのです。「言葉」至上主義においては、すべてを理解する可能性は崩れています。

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p17-18

ここで記載されている"経験した者によって経験されるしかない"というところがポイントで、例えば、この引用自体もそうであるが、1.で引用した「中たりを気にしてはいけません!」は、それ自体もそうであるが、引用した箇所のほとんどにおいて、僕自身は「経験している」(と考えている)ことが多く、すんなりと意味が入ってくる。同様に「私はそもそももはや何も理解していないのではないかと思います」から始まる件も、おそらくほとんどの方にとっては、「意味不明」な文章のように思われるのではないだろうか。

僕自身も、禅の精神の全容を知っているわけではないし、その境地に達したわけでもないので、この本の中でも「???」という部分は残っているのは事実だ。だけど、この本の言わんとしている土台、もしくはスタート地点に立つくらいの、ヘリゲル氏と共通した体験があるのではないか、と思っている。

ヘリゲル氏の「言葉は手段であり、意味は行間にあり、経験された者によって経験されるしかない」のだとすれば、文字(や言葉)を媒介とした情報摂取は、思っている以上に難しいのではないか。

それこそまさに、引用文中にある通り、”欧米の仏教・禅研究者が、「学問的に」徹底的に吟味されたテキストを現実に「把握した」と思い込んでいるだけ”のようになっていることも多いのではないか。

もしそうだとすると、読んだことを(=吸収したいと思う考え方を)どのようにしたら、実際に「経験」してもらうことが出来るのだろうか。この点は、今まさに探究中のことであるので、成果が見えてきたらまたnoteに残していきたい。

3.ココロに残ったフレーズ集

以下に、恒例(?)のココロに残ったフレーズ集を記録しておく。これらは、いちごるレッスン受講生であれば、「これって、あのことかも?」と、もしかしたら思ってもらえるものかもしれない。

あなたの一番の欠点は、まさにあなたがそのような『意志』を持っていることです。あなたは、矢がちょうどよい時だと『感じ』、『考え』た時に、矢をすばやく射放そうと『意欲』され、意図的に右手を開いています。つまりそのことを意識しています。

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p27

的を確実に中てるために、矢を放すのを習おうと意欲することに固執すればするだけ、それだけ一方もうまくいかず、それだけ他方も遠ざかるのです。あなたがあまりに意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっています。意志で行わないと、何も生じないと、思い込んでいます。

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p96


⇒以上2つの引用は、「トップの位置は~」「ダウンの時は、シャロ―(という動きが出るよう)に~」などは、果たして再現性の高いショットにつながるのだろうか、という疑念と似通っているのでは。

あらゆる真正な神秘主義が従っている法則は、例外を認めない。神聖に取り扱われている禅の原典が、ぜいたくなほど溢れているということも、この法則に反するものではない。禅の原典は、決定的な経験をしたと認められたあらゆる人にとって、生命を与える意味を開示し、したがってこれらのテキストから、それらとは関係なく彼が持っており、それであることの確認を読み取ることが出来るという特性を持つのである。これに対して、経験していない者にとっては、それらは何も語らないのみならず、救いのない精神的な誤りへと導かれてしまう。

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p67


⇒「右手が大事」、「左手が大事」という真逆の主張が実はどちらも正しく、アプローチが違えど目的が同じであれば問題ない。”あらゆる真正な神秘主義が従っている法則”とは、すなわち、ゴルフでいうところの、「スイングの原理原則」であり、「上達のための原理原則」といえる。これらに例外はない。

(↓ヘリゲル氏が弓道を心得て、母国に帰る段なって、師匠がヘリゲル氏に伝えたこと)
ただ一つ、あなた方の心の準備として言っておかなければなりません。あなた方お二人は、この年月が経つ内に変わられてしまいました。これは、弓道が、すなわち射手の自己自身との究極の深さにまで達する対決が、もたらしたものです。あなた方は今までそのことにはほとんど注意されなかったでしょうが、あなた方が故国で友人・知己に再会されると、そのことに否応なく気づくでしょう。以前のようにはしっくりとは合わないのです。あなた方は多くのことを違った風に見、違った尺度で測っているのです。それは私にとっても、そのように起こりました、この道の精神に触れた人には誰でも、このことが起こるのです。

『弓と禅』、オイゲン・ヘリゲル著、角川ソフィア文庫、p.146

⇒これは「ものの見方」の話。そして、僕がゴルフレッスンを通じて、受講生に本当に伝えたいものの一つで、実際にはまだそれを伝える術が見つかっていないもの。この引用個所をみて、「確かにその通りですね~」と思ってもらえるようなレッスンをこれから作り上げていきたい。

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