「夜と霧」を読んで
友人の勧めで読んでみたが、やはり評判通り名著である。
これまでアウシュヴィッツをはじめとした収容所については、多くの書籍や映画で描かれているが、作者の実体験を踏まえつつ「精神医学」の観点から収容者の精神状態を冷静に客観的に分析していたものはないと思う。
収容所という、人間の尊厳を全て奪われる異常な状況下で、非収容者たちの精神を、第一段階(収容)、第二段階(収容所生活)、第三段階(解放)というプロセスから語られている。
以前から感じていた私の素朴な疑問、
「なぜ収容所に入れられたら、生きて出られることはほぼない、と分かっていながら、非収容者たちは反乱を起こさなかったのか?」
ということへの解も見つかった。
収容所に入れられて数日で、あまりに凄惨な状況を目の当たりにしすぎて、感情が消滅してしまう。いかに毎日を小波が立たぬよう過ごし生き長らえるか、それ以外のことに興味を示さず、無気力になってしまう。異常状況下の人間の心理的防衛反応とは、こうした感情の消滅、不感無覚である。
また加えて印象的だったのは、
「過酷きわまる外的条件が人間の内的成長を促すことがある」ということである。
具体的には、収容所生活という劣悪環境の中で、「無気力人間になるか」「未来の目的を拠り所に内面的な勝利を勝ち得るか」は、本人主体で選択されるものである、ということだ。
尊厳を完全に奪われた状態であっても、こうした「人間としての精神のあり方」は誰からも奪うことはできない、ということは非常に興味深かった。
現在の私たちは、新型コロナウイルスの世界的パンデミックという異常な状況に置かれて(もちろんアウシュヴィッツはその比ではないが)おり、日々増える感染者数や政権批判のニュースなど、ストレス要因は数多く存在する。
そうした中で、私たち一人ひとりは、「パンデミック後、つまり未来の自分の在り方」を考え選択肢、今のうちに備えておくべきなのではないだろうか。
「コロナが収束したら、こんなことをやりたい、両親や子供にこんなことをしてあげたい」
そんな未来の目的を拠り所に、
身体的ではなく、精神的に、新型コロナウイルスに勝利をすることが必要ではないか。
そんなことを考えさせられた本だった。
以下、ネタバレを含む読書メモである。
• カポーについて。SSのように優秀なものから選抜されるのではなく、劣悪な順に選定される。
• 生存競争の中で良心を失い、暴力も仲間からものを盗むことも平気になってしまっており、そうした人間だけが命をつなぐことができた。いい人は生きて帰ってこなかった。
1.第一段階:収容
• 溺れるものは藁をも掴む。精神医学では、いわゆる恩赦妄想がある。最後の瞬間まで、自分は恩赦で死刑を免れると信じる。
• 実際にそう思わせた出迎えの収容者はごく一部のエリートで、収容者の財産を奪い取るものだった。
• 長期の収容者には一晩を陽気に過ごすためのブランデーが必要で、身も心も最悪の状況の中で、憂さを晴らしたいという心理にはうなづける。
• 収容者の恩赦妄想に格好の餌が与えられた。SSがやたら親切に見えてくる。ただそれは収容者が身につけている腕時計を狙ってのものであった。
• シャワーで本物の水が出てきた際に感じたのは、やけくそのユーモアと好奇心。
• 人間は何事にも慣れる存在で、生活環境が極めて悪化しても眠り、ある程度の健康が保てるように適応していた。
• アウシュヴィッツでは、収容ショック状態にいる被収容者は、死を全く恐れなくなった。収容されて数日で、ガス室はおぞましいものではなくなり、自殺の手間を省いてくれるものとしか映らなくなる。
• 特定のことに直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別を持っていない。人間は正常であるほど、精神病院のような異常な状況に置かれると異常な反応を示す。
2.第二段階:収容所生活
• 感情の消滅。収容のショックから、悲惨な状況を目にする毎日で正常な感情の動きをどんどん止められてしまう。懲罰訓練の様子から目を背けていたが、数日で目を逸らさず見て、感情の小波が起こらなくなる。心が麻痺する。
• 苦痛を感じなくなる。不感無覚は、被収容者の心を囲う、なくてはならない盾になった。
• かなり感情が鈍磨した者でも、時には憤怒の発作に見舞われる。それも、暴力や肉体的苦痛ではなく、それに伴う愚弄が引き金になる。
• 第二段階の感情の消滅は、精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズム。全ての感情生活は、自分や仲間の生命を維持することに集中していた。
• 被収容者が見る夢とは、パンやケーキ、タバコといった素朴な欲求に対するもの。悪夢にうなされる仲間を起こそうと思った時、思いとどまった。どんな悪夢よりも現実の方が劣悪だから。
• 収容所生活の中での本能は、栄養不良のため食欲を意識の前面に押し出している一方、性的なものへの渇望は無くなっていく。
• 収容所暮らしが長くなると、いかに生き延びるかというギリギリ最低限の関心ごとのみに集中し、非情さが生まれる。生きしのぐこと以外をとてつもない贅沢とするしかない。
• 楽天的な人間ほど、政治に関する噂話で神経をすり減らしてしまっていた。また意外なことに宗教に対する関心も高まってくる。
• 多くの被収容者は、外見だけでなく内面生活も未熟な段階に引きずり下ろされたが、もともと精神的な生活を営んでいた感受性の強い人は、意外にも精神的なダメージが少なかった。
• 収容所に入れられ、自己実現の道を断たれてしまう最大限の苦痛の中であっても、人は愛する人の面影を精神力で呼び出すことで、満たされることができる。
• 愛する妻が生きてるか死んでしまっているか、といった生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在があることで、満たされることができた。
• 過去の日常生活を思い出しながら、被収容者の内面が深まると、芸術や自然に接することが強烈な経験となる。例えば護送車の鉄格子から見える夕焼けにうっとりするなど。
• ユーモアも自分を見失わないための魂の武器。ほんの数秒間でも周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在に備わっているもの。
• ほんの些細な恐怖を免れることができれば、収容者は感謝していた。例えば、床に着く前のシラミ退治ができるだけで喜んでいた。(〜よりはまし、という精神状態)
• それまでの価値は音を立てて崩れ、わずかな例外を除いて生きしのぐために直接関係のないことは、全て犠牲に供される。
• 最終的には自らの自我までもが無価値なものに見えてくる。強制収容所の人間は、自ら抵抗して自尊心を奮い立たせない限り、自分はまだ主体性を持った存在なのだということを忘れてしまう。私という存在は、群れの存在のレベルにまで落ち込む。
• 様々な状況で保身を計ろうとするため、被収容者は程なく、群衆の中に紛れ込み、目立たず、SSの注意をひかないことを必死の思いで行う。
• 感情の消滅は、魂の自己防衛メカニズムだけでなく、肉体的な要因(空腹と睡眠不足など)によっても発生する。
• 人間の魂は結局、環境によって否応なく規定される。ただし、一部の被収容者では、感情の消滅を克服して最後に残された精神の自由、つまり「私」を見失わなかった英雄的な人の例も見受けられる。(他の被収容者にパンを与え、言葉をかけた人もいた)
• 収容所の日々は、内心の決断を迫る状況の連続であり、人間の独自性、精神の自由などいつでも奪えると威嚇し、典型的な被収容者への焼き直された方が身のためだと誘惑する環境だった。
• つまり、人間は一人一人、このような状況にあってなお、収容所に入れられた自分がどんな精神状態になるかについて、何らかの決断を下せる存在である。
• 私の心をさいなんでいたのは、「私たちを取り巻くこの全ての苦しみや死には意味があるのか」という問い。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな性は元々生きるに値しないのだから。
• 人間として破綻した人の収容所における内面生活は、追憶をこととするようになる。未来の目的に拠り所を持たないからだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長を促すことがある、ということを忘れている。
• 強制収容所では大抵の人が「今に見ていろ、私の真価を発揮できる時がくる」と考えていたが、現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮された。多くの人間のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいはごく少数の人間のように内面的な勝利を勝ち得たか。
• 未来を信じることができなくなった者は、破綻した。突然、未来とともに精神的な拠り所を失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも破綻した。ピクリとも動かず、自分を放棄した状態になってしまう。
• 勇気と希望、そしてその喪失といった情調と、肉体の免疫性には関係があり、希望を失った被収容者は潜伏していたと見られる発疹チフスに倒れていった。
(実際に、クリスマスから新年の間に死亡者が続出した)
• 生きる意味を見失った人に対してできることは、生きる意味についての問いを180度転換すること。生きることに何を期待するのか、ではなく、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ。生きることはつまり、生きることの問いに正しく答える義務である、ということ。
<収容所監視者の心理>
• 監視者の中には臨床的な意味で強度のサディストがいたこと。そして、監視者が選抜される際は、サディストの上位からの選抜を行なっていた。
• さらに、監視者の多くが、あらゆる嗜虐行為に長年慣れてしまったため、鈍感になっていた。そのため、積極的にサディズムに加担はしないものの、他で行われるサディズムになんら口を挟まなかった。
• ただし、中には被収容者のためにポケットマネーから薬を調達したりするものもいた。
• ここから言えるのは、監視者・被収容者という2側面だけで、1人の人間について何も語ることはできないということ。人間らしい善意は誰にでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はおり、単純化は慎むべきである。
• この世には「まともな人間」と「まともではない人間」の2種類がいて、それぞれはどんな集団にも紛れ込んでいる。どんな集団も純潔ではない。
3.第三段階:収容所から解放されて
• 大喜びしたということはなく、精神の弛緩。頭の中で自由になったと自分に言い聞かせるが、おいそれとは腑に落ちない。
• 収容所を出て牧草地までやってきても、「感情」までは達しない。まだ世界から何も感じることはない。
• 夜になって居住棟に戻ってきて、仲間と話し、嬉しいということはどういうことかを忘れてしまっていたことに気づいた。
• 被収容者たちは、極度の離人症になっていた。全ては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられた。
• 何日も経った後、ようやく感情を堰き止めていた柵を突き破り、感情がほとばしる。
• 精神的緊張から解放された後、これまでの神経戦から心の平和に戻る道は平坦ではない。
• 突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危険に冒される。特に未成熟な人間の場合、相変わらず権力や暴力といった枠組みに囚われた心的態度を見せることがあった。彼らは経験に縛られ、権力や暴力を、今度は自分の意のままに行使しようとした。
• また、解放された人間を歪めてしまう恐れのある体験は、故郷で再開した人たちが、肩をすくめ、おざなりの言葉をかけてきた時。こうした時に不満が膨れ上がり、一体何のために自分はあの全てに耐えたのか、という懐疑に悩まされることになる。
• こうした解放された非収容者を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つけさせること。ただし、本来の未来の目的であった愛する人との再会は叶わず、手に入れた自由の中で手渡された失意は、乗り越えることが極めて困難なものである。
以上
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