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12年越しの図書カード ~ジュンク堂書店 岡島甲府店 / MARUZEN 岡島甲府店の閉店に寄せて~

書店のことを考えていたら、少し思い出したことと、なんとなくフワッと浮かんだものがあって、きっとこれも何かにつながるのかもしれないと思い、言葉を綴っています。

個人的な記録、アーカイブとして残しておきます。
いつもは音楽の日記として書いているので、ちょと趣が違うかもしれません。



いつか使おう、と思って約12年間ずっとお財布の中に閉まっていた図書カード。

約12年間の中で何度も本屋さんを訪れる機会はあったし、本を買うこともあったけれど、いつも会計時には入っていることを忘れて使いそびれていた。

そんなカードのことを思い出し、閉店からもうあと数日の時に駆け込むように書店を訪れ、きっともう今このタイミングを逃したら使うことはないだろうと思ってついに使ったカードは、約12年越しに店員さんの手へと吸い込まれていった。
それを見た時に、何かが終わって始まったような気がした。

大袈裟ではなくて、何かを手放したことで心の片隅にぽこっと隙間ができて、心に余裕ができたようなあの感覚。

大切な書店と少しばかりの私の記憶の話。

そのニュースをしたのは、2022年の夏頃。
割と大きなニュースな気がして、少し衝撃的だった。

県内の中心街に建つ、大きな百貨店の閉店。

閉店ではなく、複合施設の建設・移転のため、一時的に閉店するとのことだった。
百貨店にはあまり買い求めるものはなかったから、それほどの愛着とか思い入れは特別強いみたいなことはなくて、ただ移り変わっていく時代を噛み締めていたけれど、唯一その動向が気になっていた店舗があった。

2011年にテナントとして入った、それはそれはとても大きな本屋さん。

百貨店のほぼワンフロアに本が並ぶ光景は、凄まじい圧倒感と、当時はまだ県内の図書館が建て替え前の古い建物だったこともあって、ここに来ればなんでもある。
きっと何かが見つかる。
そんなワクワクを感じさせてくれる場所だった。

しばらくして撤退し閉店するというニュースが流れ、とてもショックというか、言葉では言い表せない寂しさを感じている。

これを書いている、今もなお…。

思えば、2011年のあのどこか虚無、という空気感の中でオープンしたことをテレビから流れてきた夕方の県内ニュースで見たような気がする。

確かアングルは割と下からの映像で、圧倒的広さと膨大な量の本が映し出されていたけれど、当時は足を運んだことがなくて、実際どんなものなのだろう?と思っていた。

そもそも…というか、あまり百貨店に足を運ぶ、ということに縁がなかった。
百貨店はどこかお高いもの、そしてどこか少し高齢のマダムが足を運ぶイメージがあって、自分の年代に百貨店はかなり遠い存在だった。

百貨店の横には当時マグドナルド(現在ドトールコーヒーの位置)が入っていたけれど、わざわざそこまで足を運ぶこともなかったし、その周辺を訪れることもあまりなかったし、強いて言えば毎年恒例の県内のビックイベントで少し訪れたことがあるくらいだった。
そういえば、ボランティアで参加した時の担当した場所があのあたりだったような…


確か2012年頃に人生の中でそう多くはないかもしれない、つまづき、を経験した時に訪れたような気がするけれど、はっきりとは覚えていない。
実際に足を運んだのを明確に覚えているのは、2014年頃だったと思う。

それは、初めてのデートだった。

初めてのデートで書店、っていうのもなかなかに…と今になっては思うけれど、当時はあまりそんなことを考えていなかったように思うし、喫茶店でお茶をした流れからちょっと足を伸ばして入ったのを覚えている。
当時お付き合いしていた人が、「あそこにしか使っているノートが売っていないから…」、という話の延長でお供したような気がする。

丸善特有のあの、どこか高尚な匂い。
たくさんの本が収まっている、紙の匂い。
百貨店のフロアにしては珍しく若い人が多い行き交い、エレベーター近くの椅子に座ってゆっくり本を読む人たち。

小さい頃から本は好きだったし、小学校の頃は外で遊ぶよりは図書室の本を読み漁っているのが好きだったから、割に本は好きな方だと思う。
だからかもしれないけれど、あの場所を訪れて数えきれない本の数と、ちょっとお高い文具を見て心は踊ったし、ここに来ればいろんな本に出会えるかもしれない、とワクワクしたのを覚えている。

そんなことを思い出しながら、とてもお世話になった学校の先生の言葉を思い出した。

「先生はあそこにいった時、たくさんの本に驚いた。みんなにもあそこに行って、たくさんの本と出会って欲しい」

オープンした翌年、2011年の虚無感と日常が少しずつ戻っていった中での2012年の3月、通い慣れた学校を卒業した。

今の自分の根幹を形成するようなとてもお世話になった学校で、いろんな思い入れが本当にたくさんあるのだけれど、その話はとりあえず置いておいて。

確かなことは覚えていないけれど…
卒業式が終わった後の室内での話の中で、積み立てていたお金が余って現金で返そうと思っていたけれど大きな書店ができたし、図書カードにして返すことにした。
という流れだったと思う。

その当時は4月からの生活のために気持ちが忙しなくて、いつか使う機会があるかも…、とお財布の中に入れたのは覚えている。

今にして思えば、何かのタイミング、きっかけはちょっとしたひょんなことの連続なのかもしれないと思う。

2014年にデートをしたこと、そしてその翌年2015年に急ぎの資料を作る関係で本が必要になって、あそこなら絶対あると駆け込んで数冊買い込んだこと。
2012〜2015年の間で少し心が沈んでしまっていた時に、何度も何度もその心の隙間を埋めてくれた県内出身の作家、辻村深月さんの作品たち。
その一つのエッセイ『図書室で暮らしたい』の中で、”あそこには書店員さんの神がいる”と書いていたような話に触れて、はぇーすごい人がいるものだと思い、時折訪れるたび、あのたくさんいる書店員さんの誰かかもしれない。
でも、広い面積の無数の本を整理している書店員さんの全員が神に見える、と思っていた。

本当にいろんな思い出がある。

そして、あの中心街も少しずつ時代の変化に合わせて、いろんなものが変わったり変わらなかったりしてきたのだと思う。
近くにおいしいコーヒー屋さんができたし、大きなアパートはできたし、アーケードは解体されたし、空き地ができたり新しいお店ができたり消えたり。

街も人も、少しずつ変わっていく。
もちろん変わらないものもあるけれど。

すごく個人的なことだけれど、この2023年にはいろんな想いが詰まっている・いくような気がしてならない。

2011年から12年。
祖父の13回忌の年。

2022年には、『すずめの戸締まり』が公開された。

2023年の今年には、芥川賞に仙台の書店員さんの作品が選ばれた。

人は多くのことを忘れていくものだ、と最近少し感じるようになった。
毎年一つずつ歳を重ねていって、鮮明に思い出せないことも少しあるし、はっきりとは覚えていないものの身体が覚えていることもある。

でもそうやって歩いていくものだ、とも思う。
何かを忘れて、何かを覚えて、少しずつ足を進めていく。

移ろい行く日々の景色の中で、今までの当たり前が当たり前ではなくなり、新しい当たり前の日常の景色になっていく。
あの頃、は誰かの心のなかに、あるいは頭の中に想い出として残るのだと思う。
そしてその中で継承するものがあって、伝えていかなければいけないこともある。

何かが終わって、また始まっていく。

そんなことを考えているときにちょうど、テレビから渋谷の東急の閉店を告げるニュースが流れてきた。

多分私だけではないと思う。
無意識的にでも2011年のあの時に何かが終わり、たくさんもがいてきて、未知なるウイルスの混沌に突入していろんなものが変わってしまったけれど、いま少しずつ何かが戻っていく中で、新しいなにかが始まっていくような空気を感じているのもかもしれない、とふと思い耽る。

でも同時に、まだ時計の針が進まない世界も、時計が止まってしまった世界もあることを意識しなければとも思う。

少しずつ、たしかに、時が過ぎてゆく。

約12年間、書店のおかげで百貨店という存在を一気に身近なものにしてもらえたし、周辺を訪れる機会が増えたこと、たくさんの本当にたくさんの出会いや想い出ができたことを嬉しく思う。
そしていつの日か、12年前の記憶を今こうして呼び起こしてきたように、想い出の蓋を少しだけ開くことがきたら良いなと思う。

そんな思いを抱えながら、まるで思いを込めたお守りになった図書カードは、書店員さんの手へ吸い込まれていった。

短くも長い年月を、本当にありがとうございました。


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