[九条家SS] 九条家バトルロワイヤル2 〜婚約者は吸血鬼 九条家共同戦線〜

前回のお話はこちら(読んでいなくても支障はありません)
[九条家SS] 九条家バトルロワイヤル 〜マパ上様争奪戦〜

********

温泉旅館の昼下がり。そこで流れる時間は日常とは程遠いほど遅い。旅館の一室には、人間離れした美貌をもつ4人の女性が、その育ちの良さを感じさせるようにしてゆったりとくつろいでいる。その様子は、彼女たちが人間ではないと言われても信じてしまうほどの美しさが見て取れたが、前日に超人的な決闘をしたばかりだと言われても到底信じられないほど和やかな様子もまた見て取れた。

実際に、彼女たちは人間ではない。彼女たちは魔界から人間界に降り立った、吸血鬼の末裔だ。九条林檎(りんご)、九条棗(なつめ)、九条杏子(あんず)、九条茘枝(らいち)。九条家という魔界の名門貴族の一家に生まれた彼女たちは、直接の姉妹ではなく親戚同士であり、人間界でタレント活動をしていた。今日は活動を休んでの慰安旅行の2日目だ。

そして、彼女たちが前日に決闘を行ったのも事実だ。彼女たちのタレント活動における恩人であり、皆が親のように慕っている「マパ上様」からの贈り物を巡って、彼女たちは激闘を繰り広げていた。とはいえ不仲からの戦いではなく、魔界の文化に則った公平さを期しての決闘であり、贈り物争奪戦は平和な決着をみせていた。

決闘でもっとも大きく負傷したのは茘枝だ。彼女はオークと吸血鬼の混血であり、近接格闘線では抜きん出た強さをみせた。それでも両腕が使えないほどのダメージを受けていたはずが、今は痛みなどないかのように寝転んでくつろいでいる。

「らいちゃん、両腕は大丈夫なのですか?」
そう茘枝に声をかけたのは吸血鬼と猫又のハーフ、棗だ。猫又の血がそうさせるのか、猫のように布団にくるまって丸まっている。
「ウチか?メンマ食って寝たら治った」
茘枝の答えは適当なようでいて事実だ。この場にいる全員、驚異的な回復力で前日の疲れなど微塵も残っていなかった。

「それでもわたくしから見たららいちゃんの回復力は異常よ。今度魔術の実験台にしていい?」
寝転ぶ二人を呆れたように眺めながら座っているのは杏子だ。彼女は純血の吸血鬼であり、身体能力にもその強さは現れているのだが、本人の志向か得意とするのは魔術と行使とその研究だ。
「林檎ちゃん、この二人さすがにだらけすぎじゃない?」
杏子はそのまま最後の一人、部屋の隅に立つ林檎に話を振った。

林檎は窓を背にして柱にもたれ掛かり、三人の様子をみて微笑んでいる。何も答えない林檎に少し不思議な表情で棗が呼びかける。
「りんちゃん?」
林檎はその声を受けてようやく口を開く。
「いいんじゃないか、こんな時くらいは」
林檎は吸血鬼と人間のハーフだ。四人の中で最年少ながら、最初に人間界にきてタレント活動を始めたのが彼女であり、残りの三人が人間界に来るきっかけを作った人物だ。
「いや、昔を懐かしんでいてな。いつだったか、四人でお泊まり会のようなものをした時があっただろう?あの時はそれぞれ貴族の娘としての交流の側面もあったからほとんどの時間は恭しく振舞っていたが、寝る段になって四人きりになった途端皆今のような感じだった。それをふと思い出したんだ。幸いなことに今もこの四人だけだし、何よりここは人間界だからな。貴族の威厳なんのそのだ、ははは」
「懐かしーなあー。あん時の棗はウチにべったりだったのになあ。今はすっかり大きくなっちまって姉さん悲しいぞー?」
「らいちゃん、その時のことは忘れて下さい。私はもう十分大人です。大人の女性ですからね。そんなはしたない真似はしません」
「いや布団にくるまりながら言われても。わたくしにはなっちゃんの基準はわからないわね」
林檎の思い出話を受けて茘枝、棗、杏子が思い思いの反応を返す。その様子を林檎は満足そうに眺めて頷くと、さて、と呟いて体を柱から話して立ち上がった。
「すまない、我は少しあたりを散策してこよう。らいちゃんもなっちゃんもまだごろごろしていたいようだし、あんちゃんは別に散策というタイプじゃないだろう?」
「悪かったわね引きこもりで。わたくしは対策していると言っても吸血鬼の血が濃い分昼間はそれでもちょっとしんどいのよ」
杏子の抗議の声と、茘枝、棗の気の抜けたいってらっしゃいを背に受けて、林檎は軽やかな足取りで部屋を後にしたのだった。

****

林檎は足取り軽く旅館の庭を歩いていた。久々の休暇、十分な運動と美味なる食事、温泉の癒しとたっぷりの睡眠、そして何より気心知れた友人たちとのひととき。林檎は久しく感じていなかったリフレッシュした気分で自然豊かな景色を楽しんでいた。

(こんなに穏やかな日はいつ振りか。人間界に来てからというもの、我は少々気を張りすぎていたからな。何もない平穏な一日というのもいいものだ)
人間たちに最大限のエモーショナルを届けるために活動する中で、多くのことを仕掛けて来たし、同時に多くのことに巻き込まれて来た。この旅行はそんな林檎の人間界での日々の中での安らぎのひとときだ。そのようなことを考えながら歩いていると、突然背後から声をかけられた。
「お久しぶりですね、林檎さん」
振り返った林檎が見たのは、ダークグレーのマントを纏った痩身の男性だった。日本人離れした深い彫りの顔に薄灰色の髪と、血の気の失せ切った皮膚の色は、一見してそこらの人間とは違ったおぞましい印象を与えるだろうと確信できるほどだ。それでも林檎はその外見に酷く驚いたりはしなかった。ただ今日は何もない日だと安易に考えてしまった自分を、自意識過剰を自覚した上で呪って、表面上は何事もないかのように口を開く。
「あら、ごきげんよう、バッターニ卿」

バッターニ卿と呼ばれた男は少し高揚した声で林檎に語りかける。
「改めてご機嫌麗しゅう、林檎さん。あの短い邂逅で僕のことを覚えていただていたとは、わざわざこんなところまで迎えに来た甲斐がありました。今日は他でもない林檎さんを、ぜひ夜会にお誘いしようと思いまして。いかがでしょう?」
「晩餐会へのお誘いでしょうか?お誘いの類は父が私に代わってお断りのお返事をさせていただいていたはずですが」
林檎の口調はあくまで丁寧で、目の前の男が礼儀を向けるべき相手だと明確に示すようなものだった。それでもその声は決して友好的なものではないこともまた明らかだ。先ほどまであんなに美しいと思っていた風景が今は色あせて見える。
「いえ、僕は貴女を直接お誘いしているんですよ。お父様は関係がありません。それにここではお父様とお話しすることも難しいでしょう?」
男の視線の粘度が増す。林檎は表情を動かさずに答える。
「では、私も直接お返事いたしましょう。お断りします」
その答えを聞いた男は僅かに口角を上げる。
「残念ですが、貴女には拒む権利はないのですよ。そもそも婚約者の誘いを断るには相当の理由がいるはずです。僕に同行できない正当な理由がお有りで?」
「父が断ったでしょう。娘は留学していて呼び戻すことはかなわないと。」
「だからこうして留学先に来たのではないですか。」
「ご存知ないかもしれませんが、こちらでは向こうの貴族社会の常識は通用しませんよ。こちらの世界では本人の自由意志こそが尊重されます」
「そうでしたね、向こうの常識は関係ない。重要なのは僕の意思。同感です。では、やはりどうしても、貴女は僕と来てもらう」
あたりの景色は色を失っただけでなくもはや歪んでいるようにさえ見える。男が一歩、林檎の方に足を進める。林檎の表情は今やとても厳しいものになっていた。
「断る。貴様のような男について行くほど、この九条林檎、落ちてはいない」
口調は礼儀を向けるべき相手から、明確に対立する者に向ける声に変わっている。
「くははははは、それでこそ九条林檎だ!君にその気がないのなら無理矢理にでも君を連れて行こう!」
男は貴族の振る舞いを捨て、高揚した笑い声と共に睨みつけるような視線を林檎に向ける。林檎と男は今や衝突寸前の空気を発して向かい合っていた。

「林檎ちゃん!」
その空気を破ったのは杏子の声だった。続いて数人が駆けつける足音が近づく。
「林檎、無事か!?」
林檎を見つけた茘枝は一気に速度をあげて林檎の元に駆けつけると、林檎をかばうようにして男の前に立つ。
「りんちゃん、これは一体?」
続く棗は警戒しながらも状況を飲み込めていないように尋ねる。男は警戒するように一歩下がる。周囲の景色は色を取り戻していた。
「おや、旅行とは九条家御一行でしたか。僕はてっきり一人旅かと思っていたのですが」
「てめー何モンだ?」
茘枝が短く尋ねたが、答えたのは林檎だった。
「どうやらこやつは我を攫いに来たらしい」
答えを聞いた茘枝が戦闘体制に入る。男はどこか余裕を見せながら彼女たちを抑えるように言う。
「さすがに1対4で貴女たちに勝てるとは思っていませんよ。今日のところは諦めるとしましょう」
「ざけたこと言ってんじゃねえ!逃がすかよ!」
茘枝が驚くべき速さで男に突撃する。弾丸のように放たれた突きは、男の腹に大きな風穴を開けた。
「残念、ここまでですか」
男の胴体に開いた穴から血は出ていない。代わりに黒い煙が漏れ出していた。茘枝の腕に胴を貫かれたままそう呟いたあと、男の輪郭がぼやけて曖昧になっていく。そして腹の穴から徐々に、黒い煙となって散っていき、最後には全身が蒸発したように消え去っていった。残されたのは林檎が歩いていた時と変わらぬ美しさをもつ庭と、そこで戸惑う四人だけだった。

****

「倒したのか?」
茘枝が誰にという訳でもなく尋ねる。
「ええ。あれはおそらく魔術で作った分身体ね。精巧な操作はできるけど、魔力は本人と比べたらほとんどないわ。らいちゃんの一撃で姿を維持できなくなったのでしょう」
答えたのは杏子だ。この中でもっとも魔術に精通した杏子が出した答えならば、他の三人には疑いの念はなかった。
「あれは一体誰だったのですか?」
棗が林檎の顔を覗き込むようにして聞く。林檎の顔は険しいままだ。
「奴は我の婚約者の一人だ。吸血鬼の氏族バッターニ卿の一人息子。我らの国の西方に領地を持つ中程度の国だ。一国で我らの驚異になる国ではないが、外交面で無視できるほど小さな国でもない、といったところだ」
「それで、りんちゃんを攫いに来たというのは…?」
「あの家系には少しばかり夢魔の血が混じっていてな。少しばかり色恋沙汰に熱心というか、悪く言ってしまえば下品な噂が絶えん。我と形式上婚約しているが、会ったのは一度きり、數十分にも満たない時間だった。しかしその時からだいぶ熱い視線を貰っているとは思っていたが、わざわざ人間界に攫いに来るほど魅了されていたとは、我の麗しさもここまで来ると罪深いな」
「完全にストーカーじゃないですか…」
棗は呆れたような心配したような微妙な顔をしている。
「まあでも、ウチがやっつけたし、大丈夫だろ?」
茘枝の楽観的な予想に林檎は首を横に振った。
「残念だがおそらくそれはないだろうな。人間界に来る手間をかけるレベルだ。武力行使の想定もしていただろう。先ほどのは分身を使った威力偵察といったところだろうな。本気で我を攫う気なら軍隊を引き連れて来るだろう」
「ということは、これから攻撃されるということも…?」
杏子の懸念は林檎にあっさり肯定される。
「あるだろうな。巻き込まれたくなかったらここから離れ…いや、すまない。各々戦闘準備をしてくれ。準備が出来次第場所を移そう。旅館に被害が出ては困る」
林檎は一度言いかけた言葉を、周りの皆の顔を見て飲み込むと、意を決したように指示を出した。
「あんちゃんには先に魔力探知を頼みたい。大規模な攻勢があるなら探査範囲を広げてもわかるレベルで反応があるだろう」
「その手のことはわたくしに任せなさいな。さっきだって、あの男の放っていた魔力に気づいてここにみんなを連れて来たのはわたくしよ?」
「ああ、助かった。頼りにしているぞ、あんちゃん」
杏子は得意げに頷くと、魔力探査の魔術展開を始める。林檎は茘枝と棗に向けても言葉をかける。
「らいちゃんとなっちゃんは戦闘準備を万全にしておいてくれ。まあ、旅行の荷物に戦闘用の装備などないだろうが」
「りんちゃんがハイヒールを持って来たくらいじゃないでしょうか?でも、やれるだけ準備はしますね」
「ウチはとりあえずモンスター補充しとくわ!」
「頼もしいな、いい友人を持った」
林檎は少し嬉しげに微笑む。棗も茘枝も各々の基準で準備に取り掛かるようだ。林檎は自らも準備のため部屋に向かいながら、今後の動きについて考え続けていた。

(狙いは我。相手の情報を持っているのも我。皆の力を借りても最終的には我次第といったところだろうな。戦力で負けるということはないと思いたいが、そもそも人間界に来る時点で想定外なのだ。それに気になる点もある。念には念を入れるに越したことはない、か。)
「りんちゃん、周りに大きな反応はとりあえずないみたい。でも向こうはこっちの魔力情報をさっき取られた可能性があるから、向こうからはこっちの動きがある程度知られてるかもね。それと、明確に向こうに敵意があるならお父様に連絡したら?国家間の問題なら、盟約に従ってわたくしたちの家も加勢するわよ?」
杏子が思案する林檎に告げる。林檎は少しだけ気まずそうに笑って答える。
「あー、それはもちろん考えたんだが…。父上にこのことを話すと、富士山が割れる可能性がある」
過保護な父が怒りに任せて人間界に乗り込んで来るところを想像して、我はまだこちらにいたいからな、と付け加える。この程度で多忙な父の手を煩わせるわけにはいかない、というような後付けの理由は、万が一父に後から知られた場合の言い訳にしよう、そう林檎は考えると、起きうるべき事態に備えるため準備を急ぐのだった。

****

林檎たち四人は旅館の裏山に来ていた。滅多に人が入らないという山で、前日の決闘の舞台にもなった場所だ。時刻は夕暮れ、徐々に闇が周囲を包み始める。人間への被害を避けると同時に、地理的有利を可能な限り取るという方針の上で、襲撃が来るとしたら迎撃する場所はここだと決めていた。

すでに全方位の魔術による警戒網は杏子により敷かれている。全員戦闘の準備は万全だ。とはいえ戦闘に使えるものといえば、林檎の格闘戦にも使えるハイヒールと、杏子の実験用にと普段から持ち歩いている魔道具や術書の類のみだった。吸血鬼の血を引く上位種であれば、素手でも十分な強さを誇るが、相手もまた吸血鬼であれば、武器を持った方が有利なのは人同士の戦いと同じだ。その意味で、戦闘への備えが杞憂となることに越したことはないと考えていた。

杏子が皆に声をかける。
「これから日が暮れて、吸血鬼の活動時間帯になるわ。攻撃があるのならこれからが本命よ。連携のために、みんなにはこれをつけて欲しいの」
杏子の手には紫の宝石が埋め込まれたイヤリングが人数分乗せられていた。
「何だコレ?」
「通信装置よ。アクセサリーに見えるように小型化したわ。そのせいで出力が落ちているから、通信範囲はこの山一帯くらいまで、時間は持って明日の昼までね。使い方は魔導通信と同じ」
皆がイヤリングを身につける。林檎が声には出さずに頭の中で念ずる。
『マイクチェック、マイクチェック、ワン・ツー、ワン・ツー。聞こえているか?』
『こちら杏子。聞こえているわ。林檎ちゃんだいぶ配信の癖がついてるわね』
『こちら棗。問題無いようです』
『茘枝だ!これ普段も使えねーかなー』
外から見れば無言で見つめあっている四人だが、コミュニケーションは確かに成立していた。
「もちろん使いすぎによる魔力枯渇とか、敵の妨害とかあるから、普通に喋って済むならその方がいいわ。それとらいちゃん、それについては今後の研究に期待してて頂戴」
「これで連携の準備も整ったか。あんちゃん、我らも警戒をした方がいいか?」
「反応があったら通信で通知が行くようにしてあるから、各々好きに過ごして頂戴。むしろ警戒しすぎて疲弊するより多少リラックスしてた方がいいわ。わたくしも体は休めるしね」
残りの三人が頷く。おそらく人間界に来てもっとも長いであろう夜が始まろうとしていた。

****

『全方位に魔力反応を検知。主力は北西方向に位置すると推定』
イヤリングを介してシステマチックな音声が流れる。広場で体を休めていた四人は即座に警戒態勢を取る。
「あんちゃん、敵の詳細は分かるか?」
「囲まれてるのは多分雑魚ね。使い魔の類だと思う。主力の方は魔力の大きさから多分三人。昼間のやつと反応が似てるからあの男がいるとしたらそこね。結構距離を取ってる。追加戦力は今のところ見当たらないわ」
「礼を言おう。動きからして、主力はしばらく様子見のようだ。なっちゃん、敵戦力の索敵を頼めるか?無理はしないで欲しいが、できれば敵主力の正確な数と装備が知りたい」
「任せてください。山は猫又の領域です」
棗がその姿を急速に縮め、猫の姿になる。猫は軽々と木の枝に飛び乗ると、そのまま樹上を身軽に飛んで北西へと姿を消した。
「よし、我らはここで敵を迎え撃つ。数が多いし全方向から来る、油断せずに確実に倒していこう」
「おしっ!燃えて来たぜ〜!」
茘枝は闘志を漲らせ南方を警戒している。杏子は広場の中央で魔法陣を展開しながら、火力の出る魔術を東西を中心に打ち出せるよう備えている。林檎は近接されると仕事ができない杏子をカバーするように、茘枝の対極、北側に位置取っていた。
「来るぞ」
周囲から蝙蝠や狼の姿をした魔物たちが飛び出して来る。戦闘の火蓋は切って落とされたのだ。

棗は猫の姿で木の枝を渡り、人間が山道を進むのとは桁違いのスピードで移動を続けていた。魔物の群れと何度かすれ違ったが、一度も気づかれることなく進んでいく。地上を移動する魔物たちはそもそも気づかれる心配がほとんどなかった。蝙蝠型の魔物など空を飛ぶものに対しては、木のうろや茂みに隠れてやり過ごす。そうして程なくして、主力がいるであろう地点の近くまで来ることができていた。

単純な命令で動く使い魔と違い、吸血鬼など魔力を操る上位存在は他者の魔力を感知することができる。それは互いに魔力をもつもの同士の戦いにおいて、索敵の戦術的価値を大きく低下させていた。しかし棗に流れる猫又の血は、魔力とは系統の異なる妖力とも呼ぶべき力をもって、魔力を感知させない迷彩状態での行動を可能にしていた。猫の姿となることで存在を小さくし、自然の力を借りて漏れ出る魔力を辺りに散らす。こうすることで魔力を行使できない単なる動物と同じレベルに魔力を偽装するのだ。棗は目的地付近からはより迷彩を強化し、慎重を期して行動をしていた。相手は魔力を隠す気はなく、こちらだけが相手の位置を知れる状態だ。

気配を殺し、相手を視認できる距離まで近づく。杏子の術式で得た情報通り、敵は三人で、その中には昼間の吸血鬼も含まれていた。
『こちら棗。敵の存在を視認しました。あの男もいます。男の他に、剣士一名、魔導士一名。どちらも吸血鬼でしょう。男はステッキのようなものをもっている他は昼間の格好と同じ。剣士は軽量の鎧に帯刀。魔導士はローブに魔術用のワンドをもっていますね。剣士と魔導士の服装には共通の紋章が…』
そこまで言って、棗は言葉を切る。魔導士と目があったのだ。魔導士は静かに手に持った杖をかざすと、杖から黒い炎弾を射出した。
『馬鹿な、気づかれた!?』
着弾の寸前に別の木の枝に飛び移る。黒い炎に焼かれた木は一瞬にして炭と化していた。イヤリングから林檎の声が響く。
『棗!すぐに引け!撒けないようなら全速力でこちらに合流しろ!』
棗は気配を隠せる最高速度でその場から離脱した。

婚約者の男が隣の魔導士に尋ねる。
「どうした、急に」
「いえ…何かいた気配がしたので…」
魔導士はそれだけ答えると視線を切って平然としている。男にとっても魔導士の態度はいつものことなので、特に気にした様子もない。
「なんでもなかったならいい。それよりお前ら、そろそろ行くぞ。向こうも吸血鬼だ、殺さないと死ぬぞ。ただし林檎だけは致命傷は避けろ。ああそれと顔も駄目だ。俺の女の顔に傷をつけるのは許さん。林檎は極力俺が相手をするからお前らは他の三人を狙え。いいな」
「了解」「…わかった」
剣士と魔導士が短く答える。そしてゆっくりと、林檎たちのいる広場へと進み始めた。

『なっちゃん、無事か?』
林檎が呼びかける。
『りんちゃん、ありがとうございます。気づかれてはないようです。少なくとも追ってくる気配はありません』
棗はそう答えると林檎たちの元へと急ぐ。林檎が苦々しい声で続ける。
『全員武装済みで共通の紋章。おそらく国章だろう。ということは軍のやつを引っ張ってきたのか?それに棗の索敵に気づきうる実力を持っている可能性がある。上級の軍用武装を装備した軍の将校クラス。最悪の想定をするならそのくらいだろうな』
『剣が厄介ね。装備なしで受け止められる威力じゃないでしょうから、らいちゃんは気を付けてね。受けるとしたら林檎ちゃんのハイヒールくらいかしら』
杏子が棗に対する情報共有を兼ねて通信網越しに告げる。杏子たちは戦闘のさなかであり、杏子も常に魔弾を射出し続けていた。
『なんでウチが名指しなんだよ!全部避けりゃいいんだろ!』
茘枝が高速で戦場を駆けながら返事を返す。茘枝の通ったあとには魔物が一匹も残らず霧散していき、戦場に一時的に帯状の空白地帯を作り上げていた。その空白地帯もそう時をおかずに魔物で埋められる。その魔物をまた茘枝が駆けながら蹴散らす。その繰り返しだった。
『あんちゃん、こう、魔術的なやつでなんとかならないか?』
曖昧な問いであることは林檎自身自覚していたが、ひしめく魔物の大群の対処と得た情報への対応で言葉を選んでいる余裕はあまり残されていなかった。林檎は舞うように蹴りを繰り出し周囲の魔物を殲滅し続けている。林檎を中心とした円形の空白が魔物の群れの中に生み出され、林檎の間合いに入った魔物が次々消滅させられるさまは林檎に向かって魔物が吸い込まれていくようにさえ見える。
『なら、ちょっと時間を作ってくれないかしら。わたくしの担当領域を二人でなんとかして頂戴』
『無理を言うな、この数だぞ』『ちょっと、それは、キビしいわ』
戦線を維持できているのが不思議なほどの魔物の数だ。三人ともダメージこそないが火力が魔物の数に間に合っていなかった。
戦場の端で魔物の群れが吹き飛ぶ。一瞬三人の注意がそちらに向く。何が起きたかの回答はすぐにもたらされた。
『じゃあ、私があんちゃんの分を埋めましょう』
棗が戦場に戻ってきたのだ。

****

棗が戻り、杏子が「作業」を終えてからは終始四人が優勢だった。無限に湧くかに思えた魔物の群れももうほとんど残っていない。しかしそれは、戦闘の一時的な停止ではあれど、終了ではないことを四人とも理解していた。敵の主力である三人の気配が近づくのを感じていたのだ。

杏子が茘枝に向けて小手のようなものを放り投げる。
「らいちゃん、これを。龍の鱗に魔力を込めて簡易的な小手にしたわ。防御力があるのは手の甲部分だけだから気を付けてね。それと軍用の上質の刀なら受けられて1、2回が限度だから過信はしないで。わたくしの大事な実験道具を提供したのだから、無駄にはしないでね」
「杏子〜ありがとな〜!今度いくらでもメンマ奢るぜ!!」
茘枝は随分と限定的な謝礼の提示と共に小手を受け取る。
「これで剣士側はらいちゃんか我でなんとかできそうか。魔導士はあんちゃんに任せるべきだろうな。問題は奴だが、特殊な武装がないから我らと同じく近接打撃系だと思いたいものだが一応警戒は怠らないようにしよう」
林檎が向かってくる気配の方向を睨みながら告げる。

その時、突如として上空から炎の雨が降り注いだ。敵の魔導士の遠距離魔術だ。杏子が四人それぞれの頭上に障壁を展開する。それぞれが自らの魔力を供給して障壁の強度を維持しつつ、黒い炎の雨を防いでいく。そして広場に三人の吸血鬼が飛び込んできた。

****

敵の襲来に真っ先に対応したのは茘枝だった。魔導士めがけて奇襲ともいえる速度で突っ込んでいく。しかしその鋭い切り込みは、剣士が魔導士を庇うように移動したために中断を余儀なくされた。剣士は帯刀していた刀をすでに構えており、その刀身は黒く鈍く光っている。茘枝はその刀の帯びる魔力から、生身で食らえば吸血鬼とオークの強度をもつ茘枝の体さえ両断するだろうと理解する。そして今、茘枝は防御用の小手をのぞいて武装していない。攻撃を刃で受けられるだけで、傷を追うのは自分なのだ。下手に防がれうる攻撃はできないという判断が、茘枝に攻撃を躊躇わせていた。

一方の剣士も、茘枝たちの戦力を適切に見抜き、魔導士にとってもっとも厄介であろう茘枝を中心に魔導士を庇う立ち回りをしていた。攻めてくる様子がないことを確認した茘枝は、機動力を生かして魔導士を狙うように大きく回り込みつつ、剣士を杏子たちから引き離すよう誘導しようとする。剣士はその意図通りに、茘枝をマークするために移動する。剣士のいなくなった側面から、魔導士めがけて杏子の銀色の光線弾が放たれる。魔導士の障壁は続けて打ち込まれる光弾を容易に消失させた。

吸血鬼の男は他には目もくれず林檎めがけて距離を詰めてくる。棗が林檎を庇うために注意を男に向ける。しかし移動に移る前に林檎から静止がかかった。
『なっちゃんはまず魔導士を仕留めてくれ。敵の数を減らすことを優先したい。魔導士を倒したら次は剣士を三人で囲んで叩く。らいちゃんは無理をするなよ。この男は我が抑えよう』
一瞬の逡巡ののち棗は魔導士に向けて駆け出す。魔導士は杖を向けると黒い炎弾を棗に向けて叩き込む。炎弾は棗が保持していた障壁を一撃で消滅させる。続く炎弾は杏子が追加で棗の周りに展開した障壁に阻まれ、棗に届くことはなかった。だが同時に、その攻撃の密度は棗の接近を止めるのに十分だった。
『まずいわね、やっぱりあの杖のせいで向こうの魔力の変換効率がかなり上がってる。わたくしの魔術だけで向こうに隙を作るのは骨が折れそうね。なっちゃん、なんとか二人で隙を作りましょう』
棗は杏子の援護を受けながら、相手を撹乱するよう軌道を変える。術者対決は棗を入れて2対1の構図に持ち込まれた。

剣士と茘枝、魔導士と杏子・棗が攻防を繰り広げる中、林檎は男と対峙していた。人数ではこちらが上回っているとはいえ、相手側は背後を互いに守るように位置しており、こちら側が相互に援護することは期待できなかった。幸いなことはある程度距離をとってそれぞれがそれぞれを抑えているため、向こうの連携もまたそれほど有効でないことだろう。林檎は心の中で愚痴をこぼす。
(上級の軍用武装を装備した軍の将校クラス、か。自分で言っておいてなんだが、最悪のケースを引き当てるとはな。あとは目の前の男の実力だが)
林檎と男は互いに互いの出方を伺っていた。

男が口を開く。
「迎えにきたよ、林檎さん。君の友人が傷つく前に、どうか僕と一緒にきてくれないかな?」
林檎はそれを鼻で笑って答える。
「随分乱暴な迎えをよこしてくれたものだ。そちらこそ、我らに返り討ちにされる前に引いたらどうだ?」
「僕としてもこれは不本意なんだけれどね。まあ、今は無理を通すけど、あとできっと、僕と来てよかったと思わせてあげるよ」
「その前に今ここで、来るんじゃなかったと思わせてやろう」
にらみ合いは緩やかに戦闘へと移行する。男は手にしたステッキを獲物に林檎に襲いかかる。林檎は優雅な動きでそれを躱すと鋭い蹴りの一撃を入れる。人間相手なら腹に穴を開けられるほどの威力の蹴りは、男の構えたステッキで受け止められていた。

****

激しい攻防を見せる茘枝たちや杏子たちに比べて、林檎たちの戦いはかなり控えめなものだった。どちらも余裕を持った攻撃で戦っており、致命傷を与えるためにリスクを取ることを避けていたからだ。林檎が守りを重視して戦っているのは、自分が捕らえられてしまってはそこで終わりだからだ。実力はおそらく林檎の方がやや上だろう。しかし無理して攻めて失敗すれば、茘枝たちが敵を倒してもその奮闘は無駄になってしまう。茘枝たちがやられるようなら奥の手を使って戦いを終わらせることも考えていたが、茘枝たちへの信頼からそれは最終手段と判断していた。

その茘枝は、剣士との戦いで苦戦を強いられていた。すでに左手の小手は斬撃を受け止めてその役目を終え、手の甲を守っていた龍の鱗は剥がれて地面に落ちていた。安易な攻撃は茘枝の命を刈り取りかねない。その認識が茘枝が後手に回っている理由だった。それでも攻めないことには勝ちはない。わずかな隙をついて打撃を叩き込んでいく。しかしその焦りは突くべき隙の選択を誤らせた。その代償を茘枝は右手の小手で支払うことになった。斬撃をいなした鱗は輝きを失い地面に落ちる。これで茘枝が斬撃を受け止めるすべはなくなった。

(やべーな、これは本格的にやべー)
茘枝はすでに防戦一方だ。多少の被弾をものともせず速さと攻撃力で圧倒する戦闘スタイルを築いてきた茘枝は、回避に専念するのが精一杯だった。それでも助けを求めなかったのは茘枝の皆を守るという矜持によってだ。
(ウチは女の子を守る側だからな)
それが強がりであることを茘枝は内心で自覚していた。それでもその強がりが続く限り茘枝は逃げずに戦い続けるだろう。そして戦い続ける限り、その瞬間は避けられない。茘枝は3度目の過ちを犯したことをはっきりと理解した。
(これは…避けられねぇっ)
腕を捨てて守りの姿勢を取る。刀が茘枝の身を切り裂くかに思われたその瞬間、剣士は突然動きを止めた。地面から突然生えた黒い大きな2本の棘が、剣士の胴を正確に刺し貫いていた。

杏子たちの攻防は均衡を保っていた。魔術が激しく飛び交う中で、棗は幾たびも接近を試み、爪をふるっていた。現状全て障壁によって防がれてはいたが、決して無尽蔵ではない魔力を確実に削り取っていた。しかしそれは、魔道具のサポートなしで、魔物たちとも戦い続けてきた杏子にも言えることだった。その結果として、今の均衡が生み出されていたのだ。
『なっちゃん。悪いんだけど、少しの間だけサポートを最小限にするわ』
杏子が通信越しに告げる。棗はわざわざ理由を聞いたりしなかった。
『わかりました。任せてください』
棗の動きが回避を前提としたものに変わる。その上で火力で押し負けないよう、相応の負荷を覚悟で動きの鋭さを増加させていた。棗が作った余裕を生かし、杏子は茘枝の戦いに注意を向ける。そこには今まさに斬られようとする茘枝の姿があった。
(らいちゃん、メンマ代、覚悟してもらうわよっ!)
杏子はあらかじめ仕込んでおいた術式を展開する。魔力に呼応して地に落ちた龍の鱗のわずかに残った色が失われていく。鱗にひびが入り、内部から黒い魔力の奔流が剣士に向かって流れていく。流れた魔力は棘の形をとって剣士に致命的な2つの穴をあけた。

目の前で何が起きたのか、茘枝には理解できていなかった。ただ攻撃が止まったこと、そして剣士が相応のダメージを負ったことは理解した。そして次に取るべき行動も。茘枝はありったけの力を込めて地を蹴り、稲妻のごとき速さで飛び出す。剣士の横を通り抜け、茘枝が飛んだ先は魔導士の元だった。来るはずのない増援への驚きと、棗の攻撃を防ぐために前方に集中させていた障壁のせいで、魔導士が取れた防御行動はごくわずかだった。茘枝の拳は障壁を突き破り魔導士の体に直撃する。受け止めきれない衝撃は魔導士の体を吹き飛ばし、その意識を刈り取った。

****

一瞬にして配下の二人が倒されたことに気づき、男は顔をしかめる。戦闘不能になった二人の足元には魔法陣が展開していた。魔法陣の光が二人を包み込むと、二人の姿は跡形もなく消えていた。
「なるほど。撤退の準備も万全というわけか」
対照的に林檎の口調には余裕がある。茘枝たちの目標が自分に切り替わるのを感じた男は、やや残念そうに林檎に語りかける。
「林檎さん、今回は引かせていただきましょう。1対4ではさすがの僕でも手に余ります。みなさまには代わりにこちらを差し上げましょう!」
そう言い放った男はステッキを地面に突き立てる。魔法陣が展開し、たなびいたマントの中から無数の蝙蝠の使い魔が飛び出して来る。蝙蝠は集団となって四人に襲いかかり、その隙をついて男は戦場を抜け出して行った。

四人は魔物の対処を終え、戦闘の終わりに一息つこうとしていた。茘枝や棗、杏子はほっとしたような表情を浮かべる。そんな中で、林檎だけが未だ顔を引き締めている。
「りんちゃん、どうしたのですか?」
棗の問いかけに、少し迷うような空白をおいて、林檎が口を開いた。
「戦いはまだ終わっていない。奴を追いかける。あんちゃん、奴の魔力反応を追ってくれるか」
「了解よ。でも、せっかく追い返したのだし、あとはお父様たちに連絡して魔界側で対処してもらうのでもいいと思うわよ?」
杏子はすぐに手を動かしながら疑問を挟む。林檎はそれに固い声で答える。
「相手の増援が来る可能性がある。杞憂ならいいが、それにしては部下を撃退された奴の余裕が気になる。この周辺にいない部下を呼び寄せるか、魔界から呼ぶかするのかもしれん。魔界との行き来はそう大量の人物を一気に運べるようにはできていないからな。戦力の逐次投入であれば向こうの愚策かもしれんが、それでも続けて襲われると今以上に戦局は悪化する。本人を捕らえて魔界に引き渡すのが確実だろう」
林檎の言葉に弛緩しかかっていた空気が引き締まる。
「移動速度はそこまで速くないわね。今からすぐ追いかければ追いつける」
「ウチの出番だな?場所を逐次共有してくれ、ウチが追いついて足を止める」
「我らが追いつくまで本格的な戦闘は避けてくれ。それと念のため罠も警戒してくれ。魔力反応はないから可能性は低いが、念には念をな」
茘枝を先頭に、四人は広場を飛び出した。

****

男に追いつくのは容易いことだった。追われていることに気づいた男が途中で足を止めたからだ。迎撃を警戒して四人は揃って男の前に現れた。男は追い詰められたというのにどこか余裕の表情を保っていた。
「おや、林檎さんの方から来てくれるとは。気が変わったかな?」
「たわごとを。貴様が何を企んでいるか知らんが、その企みはここで終わりだ。観念してもらうぞ」
男は愉悦を含んだ笑みを浮かべる。そして楽しくて仕方がないという様子で口を開く。
「人間界に君たちを呼び出した人間を、君たちは随分慕っているようじゃないか。林檎さんは確かマパ上様、と呼んでいたね」
「随分と熱心なファンになってくれたものだ」
そう返す林檎の口調は固い。
「その様子だと、やはり僕の読みは正解だったようだね。そいつには人質の価値が十分にありそうだ」
四人の顔から血の気が引く。茘枝は拳をきつく握りしめ今にも殴りかかりそうな自分を抑えている。棗は驚きで身を竦めている。杏子は震えた手で、安否を確認しようと携帯端末を取り出そうとしていた。
「ああ、確認には及ばないよ。もうすぐ僕の部下が報告をくれることになっている。僕の通信を介してそのマパ上様とやらの声を聞かせてあげよう」
林檎はその立ち姿を崩さずに男を睨み続けている。動きのない時間が続く。林檎たちに下手な動きはできない。男はますます嬉しそうに笑っている。

しばらく経っても、両者に動きはなかった。男の笑いはやや大人しくなっていた。膠着を破ったのは林檎だ。携帯端末を取り出すと、誰かと話しはじめる。
「我だ。ああ。それはよかった。礼を言おう。細かい話はまたあとで聞かせてくれ。ああ、引き続き頼む」
男と茘枝たちの目が林檎に集まる。林檎は口角をあげて微笑むとこう言った。
「やはり、備えはしておくものだな」

****

一人のイラストレーターが仕事を終えて家路へとついていた。娘からマパと呼ばれているその人物は、娘たちの肖像が製品化されることを喜びながら、今日の打ち合わせに満足感を覚え足取りも軽く家へと向かってゆく。人はまばらになり、街灯の少ない公園を通り過ぎる。

その様子を、影から異形の人物が伺っていた。闇に同化するような漆黒のコートに、生気の感じられない顔。何より残忍な目が、これから行われる凶行の予兆であるかのように暗闇に浮かんでいる。獲物が人通りのない公園に差しかかったことを確認すると、その人物に襲いかかるために姿勢を整える。殺してはならないという命令を受けていたため、武器は持っていないが、人間相手に遅れを取ることは万が一にもないだろう。襲いかかろうとするその時、わずかに風がそよぐ。次の瞬間、襲撃者の背が刀によって切り裂かれた。

襲撃者は痛みに耐えて振り返る。目にしたのは緑の戦闘服を纏った金髪の少女だった。少女の手には魔力を帯びた小太刀が握られている。少女の名は白乃クロミ。林檎の友人であり、タレントとしての同僚であり、暗殺者だ。襲撃者は殺意をクロミに向けて放つ。誰にも知られずにもう一つの戦いが始まった。

****

(やっぱり普通の人間じゃないな…痛みで動けないくらいの深さの傷のはずだけど…)
クロミがもう一度小太刀で斬りかかる。襲撃者は間一髪でそれを避けたが体勢を崩した。すかさず左手で逆手に持った普段使いの短刀を振るう。クロミの経験では殺しきるのに十分だったその一撃は、敵の服の表面にわずかに傷をつけただけではじき返された。
(林檎さんにもらったこの刀…やっぱりそういうことか)
使えないとわかった短刀を投げ捨て、小太刀を構え直す。クロミはこの異常な襲撃者と対峙するに至った経緯を思い返し、対策を考えていた。

---

林檎から電話で連絡があったのは今日の昼過ぎのことだ。クロミは上機嫌で林檎からの電話を取る。
「林檎さん!どうしたんだっ!?」
返ってきた林檎の声は、一度も聞いたことのないような真剣さを含んでいた。
「ミミ、いや…。暗殺者、白乃クロミに依頼をしたい。内容はマパ上様の護衛だ。何者かに狙われている可能性がある。期限は今からなるべく早く始めて、明日の昼まで。報酬は悪いがあとで相談させてくれ。詳細を説明している時間もあまりないんだ」
クロミは告げられた内容に驚きつつ、普段とは違った冷静な声で答える。
「わかった。クロミに任せてくれ。マパ上様はクロミが守る」
「ミミ、ありがとう。マパ上様の今日の予定は知っているから場所と一緒にすぐに送ろう。それと、マパ上様には極力知られないようにしてくれ。狙われているかもという可能性の話で、何もない可能性も十分ある。それと護衛につく前に、うちに寄って蜜柑から荷物を受け取ってくれないか。護衛中はそれを持っていてほしい」
それから二言三言交わして電話を切る。日本に来て初めての任務が、林檎からの依頼であることは意外だった。クロミはすぐに装備を整える。その表情は決意に満ちていた。任務は必ず成功させる。組織に属する暗殺者としてのプライドもあるが、それ以上に、友人である林檎の助けになれることがクロミにとっては重要だった。

林檎の屋敷についた時、対応してくれたのは林檎の妹の蜜柑だ。蜜柑は来訪者の姿を姿をみて少しだけ驚くと、視線を少しだけ下げて話す。
「クロミさまですね?九条林檎の妹、九条蜜柑と申しますわ。姉からこれを渡すようにと言われていますの」
蜜柑の手には上質な木でできた細長い箱があった。クロミは少し視線をあげて、箱を受け取った。
「白乃クロミだ。よろしく頼むぞっ。それで、これは…?」
「実は姉からは中身については教えられていませんの。クロミさまがお確かめくださいまし」
蜜柑の向ける爛漫な笑顔にクロミは思わず見惚れそうになる。姉の林檎が中学生だったらこんな風なのだろうという見た目と、林檎が中学生だったらこんな風ではなかったのだろうという明るく純真な態度は、クロミをどこかむず痒いような、それでいて少し悲しいような気持ちにさせた。
「すまないがクロミはこれから行かなければいけないところがあるんだ。林檎さんに頼まれていてなっ。今度ゆっくりお話しよう」
「あら、そうなのですね。それではいってらっしゃいまし。今度はお姉様がいるときに遊びに来てくださいね」
静かに手を振る蜜柑に見送られ、クロミは林檎の屋敷を後にした。

受け取った箱の中に入っていたのは一振りの小太刀だった。黒く光る刀身は何か妖しい力を秘めているように感じられた。何よりクロミが見てきたどの刀剣とも違う材質のように見える。クロミは背に小太刀を装備すると、コートをきて隠密行動を開始する。護衛対象に気づかれない距離をとって行動を共にする。幸いなことにクロミに入れない建物類に入ることはなく、護衛対象は見知ったタレント事務所のマネージャーと喫茶店で打ち合わせをしたのちに、そのまま帰路に着いた。

最寄駅から出て家に向かう道中、クロミが違和感に気づく。護衛対象の歩みは軽く、違和感に気づいている様子はない。道ゆく他の人々も同じだ。それでもクロミは経験から、害意を持った何者かの気配を確かに感じていた。そしてそれだけでない、人間の害意を超えた何かの気配も感じていた。クロミは警戒を強めると、周囲の様子を慎重に探りながら護衛を続けた。

(見つけた…。なんだ、あれは)
異様な雰囲気はにわかに強くなっていた。そしてその元凶である男が、自分が守るべき人間を狙うように睨みつけている。幸いなことにクロミの存在は気づかれていないようだった。慎重に忍び寄りながら、男を観察する。風貌もそうだが、放っている雰囲気が普通の人間のものではない。クロミの知る同業者のそれでもなかった。未知の相手。クロミはこれを制圧ではなく、暗殺する対象として認定した。気づかれる前に殺しきる。すでにクロミはコードを脱いで臨戦体制に入っている。林檎からもらった小太刀を居合に構える。男が襲撃のために意識を最大限対象に向けた瞬間を狙って、クロミは音もなく背後に詰め寄り、刀を抜いた。

----

小太刀を構えたクロミと襲撃者が対峙する。動きから見ても最初の一撃はかなりのダメージを相手に与えたようだ。それでも徐々に相手の動きの乱れが少なくなっていくのがわかる。敵の体制が整いきる前に、クロミは再び敵の懐に飛び込んだ。

そこからの攻防は一瞬だった。慣れない獲物と普段とは違う一刀流ではあったが、クロミの動きは襲撃者の動きを凌駕していた。二撃躱された後、襲撃者は懐から刃物を取り出し切りつけてきた。その振りを最小限の動きで躱すと、クロミは小さく呟いた。
「これで終わりだ」
クロミの放った一振りは、襲撃者の胴を深く切り裂き、襲撃者はその場に崩れ落ちた。

****

倒れた襲撃者は光に包まれると、跡形もなく消えていた。同時にクロミの周囲の気配も元に戻る。護衛対象が家に入ったことを確認すると、一定の安全は確保できたと判断して、林檎に一報を入れた。

通話を終えた林檎はイヤリングを通じて杏子に指示をする。
『あんちゃん、奴を逃さないように周囲に結界を張ってくれ』
『でも、マパ様が…』
『我を信じてくれ』
杏子は意を決して結界魔術を起動し始める。その動きを察知した男は口を荒げて言う。
「おい、妙な真似をするな。お前らのマパ上様とやらがどうなってもいいのか?」
『無視しろ』
林檎が指示を出す。男は端末を取り出しながら林檎に話しかける。
「どうやら状況を理解していない方がいるようだ。悲鳴の一つでも聞かせれば分かってくれるかな?」
しかしその端末から応答が返ってくる気配はなかった。
「状況を理解していないのは貴様の方だ。その通信先の相手はこちらで処理した」
「なっ…」
男が驚愕を浮かべ、その後に焦りの表情に変わる。
「これで貴様は追い詰められたな?」
男はもはや平静を失っていた。林檎の言葉を契機に全速力でこの場を離脱する動きを見せる。
「杏子!」
林檎の号令で杏子の結界が起動する。林檎は続けて叫ぶ。
「マパ上様は無事だ!奴を捕らえるぞ!」
四人の九条家の末裔の怒りを込めた総攻勢は、男を動けない状態にするのには十分だった。

魔界との連絡を終え、拘束した男を魔界へと転送する。念のため、魔界側で一時的に人間界との干渉を断つ処置をすることになった。戦いが終わり、棗が焦ったように言う。
「マパ上様のご無事を確認しなければ!」
そうして携帯端末を取り出そうとする棗を林檎が手で制す。
「マパ上様、今お時間は大丈夫でしょうか。いえ、大したことではないのですが、昨日おっしゃられていたタペストリーがいつ届くかと、皆が気にしていまして。えっ、そんなに早いのですか?なるほど、運営もたまにはいい仕事をしますね。ええ、こちらは四人とも自然を満喫しております。すみません、みんなからの代われという視線が強くなってきましたので、これで。ご多忙とは思いますがご自愛ください。では」
通話を終えた林檎が優しい声で言う。
「あのままだとなっちゃんが焦った声で洗いざらい喋ってしまいそうだったのでな。すまないが、マパ上様の無事は我が確かに確認した。念のためクロミを護衛にもつけている。マパ上様に不要な心配をかける必要はあるまい」
残りの三人もほっとした顔で頷く。

戦いは林檎たちの勝利で幕を閉じた。

****

「それにしても」
旅館に戻って部屋でくつろいでいる杏子がため息を吐く。
「折角の慰安旅行だというのにどっと疲れたわね」
他の三人も三者三様で力を抜いていた。朝はしっかりしていた林檎でさえ今はしんなりしている。

「あんなのが婚約者なんて、林檎もついてねえよなぁ」
茘枝がぼやくように言う。
「ま、林檎の婚約者が一人減ったってことで、ライバルが減ったって考えておくか」
茘枝の発言は相変わらず本気なのか分からない。少し眉をひそめた棗に視線を向けて林檎が素っ気なく答える。
「我はらいちゃんの子猫ちゃんになるつもりはないからな」
「なんだぁ子猫ちゃんって。まあウチにとっちゃかわい子ちゃんはみんな子猫ちゃんみたいなもんだけどよ。猫は残念ながらもう間に合ってんだよなー」
茘枝はからかうように棗の方を向く。棗はとっさに顔を背けて不満げに言う。
「猫じゃないです猫又ですー。」
林檎は「ははは」と笑って楽しそうだ。

「まあ前向きに考えましょう。わたくしにとっては魔術を存分に振るう良い機会だったわ。あんなに存分に魔術を使えることなんてあんまりないからね。あとは魔眼とかも色々試したかったんだけど、林檎ちゃん実験台になってくれない?林檎ちゃんの対策とやらも気になるし」
杏子はそう言って林檎に笑いかける。
「我は実験台になるつもりも魔眼対策を教えるつもりもないぞ。こちらでできた友人にメイプルシロップでも山ほど積んで頼んでみたらどうだ?」
杏子は心当たりを思い浮かべ、少し呆れて反論する。
「さすがにこっちの人間に魔眼かけるのはねえ」
「あいつは多分なんでもやるぞ。メイプルシロップのためならな」
本当にメイプルシロップのためなのかは分からないがな、とは言わず、少し真剣に検討し始めた杏子の様子を林檎は楽しそうに眺めていた。

休息もひと段落ついたところで、林檎はクロミに通話をかける。
「ミミか?そっちはどうだ?悪かったな、大変だっただろう?」
『林檎さん!クロミにかかればあんなやつチョチョイのチョイだぞっ!!』
クロミは任務の大部分が終わって普段の調子を取り戻しているようだ。
「念のため明日の昼までは護衛をお願いするが、これ以上のことは多分ないだろう」
『マパ上様のことは安心してくれよなっ!クロミはプロの暗殺者だからなっ!』
「ああ、ありがとう。マパ上様もだが、ミミが無事でよかった。本当によかった」
林檎がしみじみとした声で言う。
『なっ!クロミは一回も任務で失敗したことがないんだぞ!!まあ林檎さんのくれた刀がなかったらちょっと危なかったけどな!』
「それはよかった。ああ、報酬はたんまり弾ませてもらおう。きちんと請求してくれ」
『ならクロミは山ほどアイスを食べたいぞっ!!』
クロミの少しずれているような回答に林檎から思わず笑いが溢れる。クロミは笑われたことに抗議してきたが、クロミの反応は林檎をますます笑わせるだけだった。

****

「それにしてもよー」
茘枝が林檎に尋ねる。
「なんでマパが狙われてるって分かったんだ?」
「ああ、それか。最初に会った時に奴が『旅行は九条家でだったか』みたいなこと言ってただろ?我が旅行に行くということは配信を見ていないと分からないことだ。それに九条家だと一目で判別できるのもおかしい。我らの魔界での顔の面影が残っているとはいえ、すぐに分かるのはよほどの九条家マニアだな。だからまず、奴は配信を含め我らの活動を調査していると判断した」
いつのまにか杏子と棗も話に耳を傾けている。
「その上で、最初に現れた時奴は分身だった。普通に考えて吸血鬼の血を引く我を分身ごときで力づくで連れ去るのは無理だ。わざわざ分身できていることからも、あれは威力偵察で、向こうは計画的にことを進めていることが分かった」
「そこからどうしてマパ様が出てくるわけ?」
杏子がピンとこない顔で尋ねる。
「それは考えられた選択肢の一つだ。十分な戦力を用意して、我を力づくで連れて行く。それがもちろん第一の手段だっただろう。だが奴のような狡猾なのはそれ以外の手も用意しておくかもしれんと思ったんだ。我も性格が善良とは言えんからな、そういう奴らの考えそうなことは大体想像できるんだ、ははは」
林檎が自嘲を込めた笑いをあげる。
「その中で、我らに有効で、少ない武力で簡単に実行できるもっともありそうな手がマパ上様への攻撃だった。だから我は念のため、クロミに依頼をしておいたんだ」
「あんなかわい子ちゃんに戦わせるなんてそれはそれでひどいんじゃねーの?」
茘枝が少し真面目に問いかける。
「ああ見えてな、クロミは凄腕だ。我はミミの実力を信頼している。実際襲撃者を撃退してみせたしな」
最後に棗が抗議するように尋ねる。
「それならそれで私たちに早く教えてくれてもよかったのではないですか。私たちがどれだけマパ上様を心配したか!」
「それは悪かった。だがあれで終わりだという保証はなかったんだ。予備戦力がある可能性もわずかだがあった。結局、奴の反応は切り札を見抜かれていたという動揺が分かりやすく出ていたからな。奴の手はこれで全てだと判断してみなに告げたのだ」
皆が林檎の説明を感心して聞いていた。
(残忍で愚かな人間の血か。あるいはそういった人間を見すぎたか。我も疑い深い性格になってしまったな。だが、これも我の目指す領主の資質だ。それに今回はそれがうまく行ったのだからな)

林檎は時間を確認すると、説明を切り上げてこう告げた。
「我はそろそろ配信の時間だ。少し抜けさせてもらおう」
杏子が呆れたように言う。
「昨日も結局配信してたし、今日くらい、というか慰安旅行の時くらい休んだら?こんなことがあったってのに」
林檎は笑って答える。
「こんなことがあったからこそだ。我の楽しみの一つを駄目にされては余計に憂鬱だ」
音が漏れぬよう別室に向かう途中で、思い出したように付け加える。
「それに、連続配信記録が途切れてしまうのは勿体無いからな。我はタレント活動に手を抜く気はないんだ」

****

今日も九条林檎の食卓には多くのディナーが並んでいる。その中には元気に飛び跳ねる黄色い顔のぬいぐるみのようなアバターも混じっていた。その姿を見た林檎は心の中で呟く。
(本当に、ご無事でよかったです)
林檎の晩餐会は、色とりどりの星とギフトで埋め尽くされていた。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?