[さめメア SS] 月を砕いて、壊れぬように

 ガチャリ、と玄関の開く音がする。少しして、「ただいま」という低い声が聞こえてきた。
 室内では少女が一人、ソファに座って本を読んでいる。澄んだ水色のショートヘアに中性的な顔立ちの少女、さめのうたは、育ちの良さをうかがわせる姿勢の良さでソファに腰かけていたが、玄関からの声に反応して顔を上げた。うたはたった今帰宅した家主の声がいつもより暗く、小さいことに怪訝な表情を浮かべている。
 玄関のドアを開けて家に帰ってきたもう一人の少女は、自分のものではない靴が脱ぎ揃えられているのを見て、友人が訪ねて来ていることを知った。今会いたい相手ではなかったが、ここは彼女の家であり入らない訳にはいかない。よく家に来るからと鍵を預けたのをこの日ばかりは後悔して、この家の主、闇月芽愛は小さく「ただいま」とつぶやいた。

 芽愛がリビングに入ってくるのを見たうたが、「おかえり」と声をかける。芽愛の表情はその深い藍色の長髪に隠れてしまって見えなかった。ただその様子は、うたからすれば何か嫌なことがあったのだと判断するのに十分だった。目を合わせないまま自室へと向かおうとする芽愛をうたは呼び止めた。
「ねえ、メア、どうしたの?何かあった?」
 芽愛は足を止めたが、こちらを振り返ることはせず、ただ淡々と答える。
「ごめん、さめ、今日は一人にして欲しい」
 その背中はとても寂しそうだった。うたは思わず立ち上がり、芽愛に近づくとその手を引いた。
「メア。お節介なのは分かってるし、何も話さなくてもいいから、少しだけ、一緒にいよう?」
 振り返った芽愛と初めて目が合う。いつもは未来に向かって輝いている左右で色が違う目は、今日は輝きを失っているように見えた。拒絶されてはいないと判断したうたが手を引くと、芽愛は素直についてきた。もともと座っていたソファに二人で座る。座り際にうたが少し手を引くと、うたの肩に少しだけ体重がかかった。

 時計の針が進む音だけがリビングに流れていた。うたは何も言わなかったし、芽愛も何も言わなかった。うたはリラックスした表情で目を瞑っている。芽愛は組んだ指の先を見つめて、何かを思い返しているように見えた。しばらくそうしていると、先に芽愛が姿勢を崩した。何かを放り投げる様にソファの背もたれに倒れ込む。それに気づいたうたが芽愛の顔をのぞき込むと、芽愛は気まずそうに顔を逸らした。
「…その、ありがと」
 芽愛が隣にいるうたにしか聞き取れないような声量でつぶやく。
「ボクは何もしてないよ。むしろお節介に付き合わせてごめん」
 うたの返答が気に入らなかったのか、芽愛の表情が少し険しくなる。
「……ずるい」
「何が?」
「分かってるくせに」
 そう言って頬を膨らませた芽愛をみて、うたが思わず吹き出してしまう。
「ふふっ、かわいい」
「なっ、我はかわいくなどない…!」
 やっと普段の調子に近づいてきた芽愛の声を聞きながら、うたはなおも楽しそうに続ける。
「いやいや、メアはいつもかわいいよ?いい加減認めなさい」
「我はかわいいのではなく麗しいんだ」
「そんなにしかめっ面しないの」
 そう言ってうたがふくれる芽愛の頬をつまむ。そのまま引っ張ってやると、芽愛が不服そうな声を上げた。
「ほい、はえろ、はーらーへー」
 あまりのおかしさにまたも吹き出したうたはおなかを抱えて必死で笑いだすのを堪えている。解放された芽愛は若干頬を赤らめて気に入らないという顔をしていたが、その声色は普段通りのものだった。
「我さ、今日ちょっと嫌なことがあって。あんまり人に言うことじゃないからさめにも言わないけど、とにかくちょっとへこんでたんだ。でも、さめのおかげでなんか少し心が軽くなったよ。ありがとう」
 そう言い終えた芽愛がうたを見る。うたはまだ笑いを堪えて肩を震わせていた。
「なあ!今我すごいいいこと言ったんだけど!?頑張って感謝伝えたんだけどなあ!」
「ごめん、ごめん。メアがあんまりにもかわいいものだから」
 そういいながらうたは目尻をぬぐっている。
「我はかわいくなどない」
「かわいいよ」
「麗しい」
「かわいい」
「だからかわいいではなく麗しいんだ」
 ムキになって反論する芽愛にうたが不思議そうに尋ねる。
「なんでそんなにかわいいって言われなくないのさ」
「それは、我は孤独の悪夢、孤高の支配者だからな。かわいいなどと言われると威厳が下がる」
 芽愛の口調はすっかり本調子に戻っていた。

「ねえ、今、メアの隣には誰がいる?」
 急な質問に虚を突かれた芽愛が、意図を測りかねて答える。
「それは…さめがいるけど」
「ってことは、メアは今孤独じゃないでしょう?」
「いや、孤独の悪夢ってそういうことじゃなくて」
 芽愛の発言を遮るようにうたが質問を重ねる。
「ボクといる時間は苦痛?退屈?それとも、幸せ?」
「……それは、苦痛とか、退屈とか思ったことは無いけど」
「ということは今は悪夢の中でもない訳だ」
「あのな――」
 うたが更に続ける。
「そしてこの部屋は今ボクが支配している」
「いや、ここ我の部屋なんだけど」
「所有者と支配者は時に異なるものだよ。さあ、これで今キミは孤独ではないし、悪夢でもないし、支配者でもないわけだ。威厳なんて気にせずに、そのままでいいんだよ、"芽愛"」
 芽愛の顔が赤く染まる。いつの間にか、うたの顔がすぐ近くにあった。うたの左手が芽愛の頬に添えられる。芽愛が何も考えられずにいると、唇に暖かくて柔らかいものが触れた。うたの顔が離れる。漸く何が起きたかを理解した芽愛の顔にさらに血が昇る。逃げ出したくなりそうな恥ずかしさを感じながら芽愛は何とか口を開いた。
「い、今、さめ、」
「嫌だった?」
 うたが少し首をかしげる。近くで見るうたの顔はとてもすっきりと整っていて、そんな仕草がとても似合う。
「嫌、では、ないけど」
「女の子とキスするの初めて?」
 うたが尋ねる。うたの顔もほんのり上気している。余裕のない自分が嫌になる。
「女の子、というか、その、キス自体…」
「じゃあ、メアのファーストキス貰っちゃったんだ」
 うたが嬉しそうに微笑んで、そのあといたずらっぽい声で尋ねた。
「どうだった?」
「急すぎて、あんまりよく分からなかったから……その、もう一回…」
 芽愛の声が段々と小さくなっていく。うたはまた少し顔をほころばせながら、「かわいい」と呟いた。
「じゃあ、もう一回ね。目、瞑って」
 うたの言葉に従って芽愛が目を瞑る。うたは愛おしそうに芽愛の顔を見つめると、左手を頭の後ろに回し、右手で肩を抱き寄せた。ふたりの唇が再び触れ合う。
「ん…」
 芽愛が声にならない声を漏らす。お互いがお互いを確かめるように、ただそこにいることを示しあうように、長く、静かに唇が触れ続ける。うたの左手が芽愛の頭を撫でると、芽愛も右手をうたの背に回して軽く触れた。
「…は」
 恥ずかしさと嬉しさと興奮に似たよくわからない感情で酸欠になった脳が求めるままに息を吸う。芽愛の顔は触れたら火傷しそうなほど熱くなっていた。
「キス、しちゃったね」
 うたの言葉で芽愛は我に返った。恥ずかしさと、取り返しのつかないことをしてしまった、という気持ちが頭を混乱させる。
「二回も」
 うたの追い打ちに芽愛は耐えられなかった。その場から逃げ出すようにうたを振りほどき自室へと向かった。取り返しのつかないことをした。後悔はしていなかった。ただ、気づいてしまった気持ちをなかったことにすることはもうできない。きっともう友人ではいられない。

「ごめんね」
 離れていく芽愛を見ながらうたがつぶやいた。
「大好きだよ」
 その言葉を伝えるべき相手は逃げ出してしまった。先にこっちを伝えるべきだったかな、と反省する。
「今日はもう帰ろうかな」
 誰に言うでもなく声に出した。芽愛には一応帰ることを伝えた方がいいだろう。けれど、携帯でメッセージを送ったらすぐに届いてしまう。こういうとき、文明の進歩も考え物だな、などと考えながら、うたは鞄からノートを取り出し、ページを一枚丁寧に切り取った。何か書き添えるべきか考えたが、結局考えがまとまらず、『今日はもう帰るね また明日』とだけ書いた。
「明日学校で会っちゃうもんなあ」
 よく考えたら結構衝動的な行動をしてしまった。舞い上がっていたことを遅れて自覚して、うたは頬を赤く染めた。それでも、明日はちゃんと自分の気持ちを伝えよう、と決めて、芽愛の家を出る。鍵はまだ返さない。返したくない、という気持ちを込めて鍵を握りしめた。

 外はすっかり日が傾いていた。夕焼けに染まる空との境界に月が見える。欠けるところのない月が、まるで茜色の液体に浮かぶひとつぶの泡のように見えた。日が沈むと、闇に包まれた空の真ん中にあの月が輝くのだろう。
 うたは雲一つない空を願って、芽愛の家を後にした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?