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「他者を尊重する」25年前のニュージーランドでの日々からジェンダーについて考えてみた その1

最近、あらためて「ジェンダー」や「差別」について考え、そしてそれを目の当たりにする瞬間が多い時間を過ごしている。

ジェンダーや差別を強く意識したのは、25年前に留学したニュージーランドでの日々の暮らし。

日本のジェンダーギャップ指数が他国と比較して125位のなか、ニュージーランドは4位。
先日までアーダーン首相が国家のトップだったことが話題に。
でも25年前は、政権与党と野党第一党の党首はどちらも女性。
といっても女性であることが特別視されていた記憶もない。

そんなニュージーランドの四半世紀まえのことを、ジェンダーの観点から振り返ってみる。

その前に、なぜいま私がこうしたことを書こうと思ったかの背景をまとめる。

いま書こうと思った背景

私が関わっている場で、男性から女性へ、年長者から若者への言動に、ひどく心が波立つ場面に、ここ最近、立て続けに遭遇している。

「女性の◯◯とは仕事はできない」とか「女性なのに◯◯」とか「お子さんを置いて遥々遠くまで…」とか、若者の取り組みに対して、頭ごなしに否定的な発言を繰り出すとか、同じ場面にいながらあとからそこで起きていたハラスメントを知るとか…

私自身も”男性性”であるがゆえの課題があることを、親しい人から指摘を受け、マチズモ、マンスプレイニング、マイクロアグレッション、ジェンダーを勉強している最中である。

なお私自身に課題があると書いたように、(非常にたちがわるいのだが)私の無意識の言動で人を傷つけてしまうこともある。(指摘してくれる人には感謝しかない)

いまこの文章を書いている私は、完璧な人ではない。

課題があるから、取り組んでいる最中の人。
だから「他者に対して偉そうなこというな!」というお叱りがあって当然だと自覚している。

だけどマチズモやマイクロアグレッションやジェンダーを学んでいる過程から、それに該当する言動を目の当たりにすると、心がかなりざわつくようになってきている。
ざわつくというか、心の領空侵犯を受け、危険を察知し、F15戦闘機がスクランブル発進する感覚だ。

なぜならそうした発言や行動で、心の奥底まで傷つき、場合によっては立ち直ることができないくらいのトラウマティックな記憶となってしまうこともあるし、人との関わり方に諦めを植え付けてしまうことが、眼の前で起きているのだから。

怒りと悲しさすら感じる。

だが同時に絶望感に屈しかける感覚もある。
「どーせ、この人(主に中高年男性)は一生わかんないだろうなあ」
と。

でも、私の周りの大切な人たちが、そしてその人の大切な人たちが、「いま、そこにある危機」に日々直面していることを、知識を得て心が動いている以上、黙って見過ごすこともできない。
自分の家族や親族がそうしたことに遭遇しているかもしれないと思うと、悲しい。

そして私のように無自覚に他者を傷つけてしまっている人(主に中高年男性)には、悲しいし、知ってほしいと感じる。

自分たちが生まれながらにして社会において優位で、年齢を重ねるほど優位さが強くなっていることに無自覚であることに。
(最近まで私もそこまで自覚していなかったので、目覚めつつある最中。)

少しでも誰もが誰かから傷つけられることなく、誰かを傷つけることなく、日々を穏やかに安らかに過ごせるきっかけとなれたら。

学んでいることと過去の経験に基づいて、いまだから書いてみようと思った。

他者への尊重が普通に存在する世界

ジェンダーの観点、すなわち「生物学的な性とは違い、社会的・文化的につくられている性のこと」を振り返るといったものの、そもそも大切なことは他者への尊重なんだと思う。

ということで、まずは彼の国における「他者の尊重」の実体験から。

20代の中盤に1年ほど住んでいたニュージーランド。私は首都のウェリントンに住んでた。ウェリントンの人口は10万人。ビーハイブと呼ばれる蜂の巣のような形の国会議事堂からは、徒歩圏内に住宅街が広がっていて、私の家も歩いて30分ほどのところ。

全国の人口が350万人。日本でいうと北海道と本州に350万人が住んでいる感じ。

当時は移民の受け入れが活発で、ウェリントンは国籍や人種のるつぼというくらいさまざまな国から人が集まっていた。私のホストファミリーもオランダとスコットランドから移住者で、ホストファザーに紹介してもらった床屋さんはロシアからの移住者、近所の仲良しさんは先住民族のマオリ族で、学校で仲良くなった先生はフランス人。

友人もドイツ、イタリア、スイス、ロシア、オーストリア、ルーマニア、ベトナム、インドネシア、韓国、台湾とさまざまな国からやってきた人たち。

コミュニケーションをとるには英語が必要。留学生同士、英英辞典を片手に夕方のカフェやバーで話してた。

仲良くなっていくと、友人宅やイベントでのパーティに呼ばれる機会が増えくる。そういう場所では、強いお酒や、ときには日本ではNGなものが回ってくる。

それを断りたいときあなたならどうしますか?

私は最初は「どうしたらいいんだろう?」と思っていた。
日本だと断ったら「空気読めないやつ」と後ろ指刺されることがあって、仲間はずれにされそうで怖い。

でも、周りの様子を見ると、いらないひとははっきりとNoといってた。そして勧めた人はなんの意にも介さず、平等に次の人に勧めていた。

そこでふと気づいた。
平等であることの土台には、相手への尊重があるということを。

相手が嫌だと言ったらそれ以上は深追いはしない。
でも確認しないとわからないから、一旦は勧めてみる。

私が最初に衝撃を受けたのは、この相手を尊重するという姿勢だった。
もちろん断ったからといってなにか関係性が悪くなったことは一切ない。
それが非常に心地よく、安心してNoといえたことは、非常に貴重な経験だった。

この経験に限らず、生活の様々な場面で相手への尊重を感じた。

それはバスに乗ったとき、買い物をするとき、街でちょっと立ち止まって考えているとき、電車を待っているとき、シェアハウスの玄関先で飲みながらはなしているとき。

あらゆる場面で、自分と他者の境界を意識して、相手を尊重したうえで、自分の意見を伝え、ともに進むためにはなにができるのか?と話し合う。

自分と相手は違う生き物で、だからこそ相手への配慮を忘れずに、相手も自分も尊重する、ということがそこかしこにあった。

この他者の尊重が、さまざまなケースにおける平等のすべての土台になっていたと思う。

尊重あってのジェンダー平等

誰に対してであっても、他者を尊重する、だから平等に接することができる。
もちろんあくまでも相手と私の間ではわかりあえないこともあるから、NOを受け入れる。

そんなことを思い描き始めたある日、家でなにげなくテレビを見ていて、私が発した一言で家中が凍りついた。

「あ、このスポーツ知ってる。日本だと女性がやるスポーツだ」

と、ポートボールのテレビ中継を見ながら何の気なしに、私はつぶやいた。

次の瞬間、ホストマザーから

「いまのどういう意味?」

と、厳しい口調と視線での問いかけが。

私は悪気もなく、特に意味を込めたわけではなかったのだが、ホストマザーの口調と視線にまずい状況だとはわかったので、緊張しながら「日本では女性がやるスポーツだから。。。」と答えた。

それに対して
「スポーツはスポーツ。女性がやる、男性がやると役割を決めつけるようなことはしないでほしい」
とホストマザーから指摘を受けた。

この一言で、私はこのときまで何の気なしに思っていたことだけれど、無意識のうちに、「これは男性が、これは女性が」という決めつけや偏見をもっていたのだと痛烈に感じた。

またあるときは学校で机や椅子を移動させるときに、小柄な女性がたくさんの椅子を運んでいて「手伝おうか?」と申し出たところ「私が小さくて力がないと思っているんでしょう!」と怒られた。(というか主張されたというべきだ)

そのときも、意識的には全くそう思っていなかった。

でも、いま思えば、私から彼女がそう思うようなサインが発せられていたのだと思う。
そして彼女はそうされることで嫌な思いを積み重ねてきたんだろうと思う。

こうした経験をするたびに、相手への配慮や尊重がないと、平等は成立しないんだろうと感じ始めた。

無意識とはいえ先入観や偏見が、言動からにじみ出ると、相手は自分を踏みにじられたと感じる。

にじみ出てしまうことはあるかもしれないけれど、その出し方がドン!と出れば、相手にとってはストレスになる。

だからこそ、相手と自分が違うことを意識して、相手を尊重して、相手が受け止めやすいサイズ、形、温度で差し出す必要がある。

尊重とは相手を相手のあるがままに受け入れること。
その人がしたいことをその人がしたいようにするのを「そうなんだねぇ」と受け止めること。

だからニュージーランドでは性別による差や違いを感じることはなかったし、人種による差別を受けたこともほとんどなかった。
(とはいえ田舎では嫌な思いをすることはゼロじゃなかったけど)

「男性だから」「女性だから」「◯◯人だから」「障がいがあるから」といったことをほとんど聞かなかったニュージーランドでは、日本ではいまでも実現できていないようなことが、四半世紀前にも普通に生活のなかに溶け込んでいた。

平等を実現するためには、まずは誰に対しても尊重する、この考えと行動が本当に大切だと思う。

私自身まだまだできていないときが多々ある。

でもできないからあきらめるのではない。
できないから逃げるのではない。
”できるようになっていくプロセス”を味わいながら、ときに進んで喜び、ときに後退して反省しを積み重ねながら、私も他者を尊重できるようになっていきたい。



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