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「苦しい」よりも「生きられない」よりも「人生」は上―『乳と卵』川上未映子(2008年)

 胃痛と、それをかばっての腰痛の併発。そして全体的に行き止まりで、足踏みしているような倦怠感を抱えながら寄った本屋で、やっつけ気分で買った。
 この小説は私が大学生だったときに読んでいる。なのに今回買うのか?もったいなくないか?など、考えるのが面倒だった。しんどくて自暴自棄になっていて、その「無駄かも精神」に唾を吐きたかった。

娘の緑子を連れて大阪から上京してきた姉でホステスの巻子。巻子は豊胸手術を受けることに取り憑かれている。緑子は言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書き連ねる。夏の3日間に展開される哀切なドラマは、身体と言葉の狂おしい交錯としての表現を極める。日本文学の風景を一夜にして変えてしまった、芥川賞受賞作。

文春文庫 あらすじより

 川上未映子×村上春樹のインタビュー本『みみずくは黄昏に飛びたつ』で、川上未映子はこの「乳と卵」のために文体を作ったと話していた。
 対談集『六つの星星』で、3人の登場人物、夏子・巻子・緑子は、樋口一葉の「たけくらべ」からきていると知った。
 細部まで考えて書かれているのだ。そのとき、創作という行為の神聖さを知り、まったく驚かされた。私は舐めていたのだ。物を創ることを。作家のすさまじさを。本当に、何も知らなかった。

 膨張して自己主張している胃と全身倦怠感でただベッドに寝転んでいることしかできず、動画もSNSもどうでもいいし、痛い以外なにもなくて、お風呂にも入れなかったが、その状態で「乳と卵」を読んでいた。作中の大阪弁が心地いい。これを読んでいるとき、私の脳内も本の影響でちゃんとした大阪弁だった。私の中からどんどん失われつつある本物の大阪弁。

 半狂乱に豊胸手術を考える巻子がおかしくて、愛おしさに近いものをいだく。銭湯で無意識にお客の胸を凝視しつづけているのや、夏ちゃん(この小説の語り手。巻子の妹)に際限なく、懸命に、むしろ自分に説いて聞かせるように豊胸について話しているところなど、こちらの気持ちを衝く。豊胸手術は「男のためじゃない。そんなんじゃない。」それはわかる気がする。でも、どれだけ説明を聞いても巻子の切実さと同じようには理解できなかった。

 巻子の娘・緑子も愛らしい。緑子はもう半年も母親と口をきいておらず、必要なときは筆談でコミュニケーションをとる。
 この緑子のノートがいい。筆談のためだけでなく、「記録」としても使用しており、作中にその中身が登場している。
 フィクションが語る真実というものに私は信頼をよせるが、緑子のノートは本物だ。漢字の「厭」を練習をしたり、たまに丁寧語になったりする細部はもちろん、言葉を発さないと決めた緑子の心の苦しさや葛藤をいっぱいに書きつけている。傷から血を流しながら生きているような緑子を、私は「わかる」と言いたい。

 最後の巻子と緑子と夏ちゃんの台所の場面は泣きそうになる。
「くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちゃうか、みんな生まれてこやんかったら何もないねんから、何もないねんから」

 私が行き詰まったときの最強の論説だと思ってきた、"そもそも生まれてきたくなかった”。でも、もしそう言う人がいたら、それは違うと言いたくなる。緑子に、それは違うと言いたかった。なぜ? 私自身、反論できないのに。
 この文章は川上未映子のエッセイ『きみは赤ちゃん』にも出てきた。

生まれてこなければ、悲しいもうれしいもないのだから、だったら生まれてこなければ、なにもかもが元からないのだから、そっちのほうがいいのじゃないかと、わたしは小さな子どものころから、ずっとそんなふうに思ってきた。

『きみは赤ちゃん』川上未映子 文春文庫 P.180

 でも―と続けたい。苦しい、生まれてこなければよかった、も含めて人生だ、と浮かんだ。川上未映子も答えを知らないと書いていたし、私ももちろん全然わからない。(或いは、その答えがわかるなら、本なんて読まない。)けれど、「苦しい」「生きられない」よりも「人生」は上なのだ。もっともっと上なのだ。多分。きっと。
 「尊さ」の本当の意味もわからないけれど、その一端を摑もうとして日々生きている。「確かなもの」を少しでも得ようとして。
 巻子の言葉「ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで」というように、わかり易い答えなんてないのかもしれない。

 緑子に「それは違う」と言いたかったのは、そんなの言ってる人がいたら悲しいからだ。私も同じことを思っているから、私のその想いといっしょに癒したかった。
 緑子の意固地になることを、わかると思った。心の中では心配で、不安でたまらなくなるのも。生きやすくなりたい。それも「人生の答」を追い求めているのと同じ、難題なんじゃないだろうか。そんな私だけど、緑子が仲間でよかった。川上未映子がいてくれてよかった。

(文・2021/4 ノートから修正、転記)





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