深淵に気付いてはいけないー『むらさきのスカートの女』今村夏子(2019年)
(1,616文字)
芥川賞を受賞したときから興味をもっていた。近所に住む「むらさきのスカートの女」と友だちになろうとする「わたし」。その試みに不覚にも共感したから。私はそこらじゅうに安寧や庇護を求めていて、友だちが欲しいとしょっちゅう思っていた。作中の「わたし」がそれを頑張るというのには魅かれた。
でも、以前に読んだ今村夏子のデビュー作『こちらあみ子』はとても難解だったため、不安があった。文章が難しいのではない。なにを意図して書いているのか、推しはかりかねるのだ。
読んですぐわかる。「むらさきのスカートの女」より「わたし」の方がよっぽど謎の人物だ。
なぜ「むらさきのスカートの女」を「わたし」は観察しつづけることができるのか。「わたし」は誰とも口を利かない。今読み返すといろんなところにヒントが散らばっていた。怖くなって固まってしまった。のっぺらぼうと無記名の世界。「むらさきのスカートの女」は本当に実在したのか? 「黄色いカーディガンの女」の妄想の産物なのか? 決して解き明かしてはいけない。引きずりこまれる。
もしこれが「わたし」の妄想なら、この小説は作者の妄想だと言える。妄想をこれだけ書きつけられるのは脅威だ。
文庫版の巻末にまとめられたエッセイが良かった。私程度にネガティブで、私程度に消極的。だけどお笑い番組が好きらしく、読んでいると笑わされた。
芥川賞の結果を担当編集者と待っている間、痔の看板の話がしたくなり、「どうしても言いたい、理由なんてない」と力強く思っているところとか、買い物にいったとき、夫の欲しいものが「チャックのしっかりしたズボン」で、「今穿いているズボンは、チャックが勝手にずり下がってきて、気づいたら全開になっている」から、手を当てながら仕事をしていた、とか、文章が淡々としているのにふいうちで面白いことを書くから笑ってしまう。
大和川とか、梅田のヨドバシカメラとか、大阪の地名が出てきてうれしくなった。
自分の文章を気持ち悪いと連呼していた。(「何とも思わなくなる日」P.179~181)「何でもいいから書くんだ、失敗作でもいいんだ、編集者が決めるから」と「投げやりな気持ち」で書くそうで、すごくいい。
「人と接しない仕事に就きたい」から絵本作家がいいなと思ったり、漫画家を目指して少女漫画誌と青年漫画誌に投稿し(どんな絵とストーリーだろう)、青年漫画誌には掲載されたらしい。すごい。次に挑戦したのが小説の執筆だった。思い立ったらすぐに書きはじめたらしい。「すぐ」ってところが森博嗣的だ。
この、誰も読んでないnoteに書くが、私も小説を書きたい。だから今村夏子さんのエッセイは聞きたかったことを読めたと感じた。それも自信なさげな様子は作家を身近な存在に感じさせてくれた。もし今も大阪に住まれているなら、すれちがうかもしれない。『むらさきのスカートの女』も書いたという執筆場所のドトールコーヒーに立ち寄る回数を増やそう。
作者は意図せず書いたのだろうか? インタビューではそんなふうに答えていたが。デビュー作が三島賞をとったとき、記者会見で「もう書くことがないんです」と半泣きで語った今村さんが、とても嘘をつける人には思えない。
もし、この作品を手が動くままに書いたのなら、とても恐ろしい脳をもっていると思うのだが。
(2020年・文/修正・転記)