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短編小説『香月珈琲、850円』

  20歳の誕生日。一緒に流行りのカフェへ行くはずだった友達が高熱を出し、予定がなくなってしまった。仕方のないことだとわかっていても、ちょっと落ち込む。こんな日は自分で自分の機嫌を取るしかない。

 せっかくだから美味しいものでも食べよう、と考えて思いついたのは家の近くの路地裏で見つけた喫茶店。レトロで渋い大人な店構えのそこに踏み入る勇気が、今まではなかったのだ。今日こそは、雰囲気だけでも大人の仲間入りをしてみようと思う。

 私は来た道を戻って、路地裏に続く角を曲がった。その店は「香月かづき珈琲」というらしい。今どき珍しい立派な木彫りの看板が扉の上に掲げられている。木製の重いドアを開けると、ちりんと鈴の音が響いた。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「あっ、はい」
「あちらの窓際のお席か、カウンター席へどうぞ」

 すらりとした長身の店員さんが、すぐさま私に気づいて出迎えてくれる。店内にはその店員さんひとりしかいないようだ。パーマだろうか、長めの黒髪にゆるいウェーブがかかっている彼は、非現実的で妖艶な雰囲気を醸していた。空間も店員さんもお洒落なものだから、緊張はより一層高まってしまう。アイボリーのシャツに真っ黒なサロンを巻くスタイルがこのお店の制服らしい。

「ご注文がお決まりのころ、お伺いしますね」

 私は思い切ってカウンター席に腰掛けて、手渡されたメニューを眺めた。窓際の席はふたり掛けだったから、なんとなく申し訳なかったのだ。手書きのシンプルなメニューには、知らないコーヒーの名前がずらっと並んでいる。唯一わかるのは「キリマンジャロ」くらい。缶コーヒーのCMで聞いたことがある。

「あの……」

「はい、お決まりですか?」

「いえ、あの、おすすめの珈琲ってありますか?私、お店で珈琲を頼むのがはじめてで」

 恥ずかしかったけれど、わからないのだから致し方ない。「なるほど」と微笑んだ店員さんは視線を右上に泳がせてから、私と目を合わせた。彼の瞳は、淡いカフェラテのような色をしている。

「香月ブレンドがおすすめです。ここの店主が自家焙煎している豆を使っているのですが、ブラジルをベースにコロンビアとグァテマラの豆を配合した、バランスの良い珈琲です」

 メニューにもいちばん上に書いてある、香月ブレンド。店員さんの説明は残念ながらほとんど理解できなかったけれど、初心者の私にはうってつけということだろう。抜かりない完璧な説明を聞くと、香月ブレンドを頼んでおけば間違いない!という気持ちにさせられてしまう。私は結構、単純なタチなのだ。

「香月ブレンドは、どんな味なんですか?」

 珈琲初心者の私に味の違いがわかるとは思えないけれど、特徴を知った上で飲んだ方が楽しめそうな気がする。なにより、普段から珈琲を嗜んでいる人がどんなふうに楽しんでいるのかを聞いてみたかった。

「ほろ苦さの中にあたたかみを感じられる、やさしい味です」

「なるほど。珈琲にも、いろいろな味わいがあるんですね」

「そうですね。うちはネルドリップという方法で珈琲を淹れていて、柔らかい口当たりも特徴です」

 またもや、わからない言葉が出てきた。私はすかさず質問して、やさしい店員さんからご指南を受ける。ネル、とはコットン・フランネルのことで、布を使ってコーヒーをドリップする手法らしい。あの“ネルシャツ”に使われている素材だ。紙のフィルターで淹れるドリップコーヒーはドラマや映画で観たことがあるけれど、ネルドリップは初めて知った。

「いろいろ聞いてしまってすみません。香月ブレンドをひとつ、お願いします」

「かしこまりました。ちなみに、甘いものはお好きですか?」

 注文を受けてすぐに手を動かし始めた店員さんの薄い唇は緩やかな三日月のように、常に曲線を描いている。細長い指先の動きはゆったりとしていて、ひとつひとつの所作が丁寧だ。

「好きです。甘いものもあるんですか?」

 メニューには飲み物しか載っていないから、てっきりスイーツは置いていない硬派な喫茶店なのかと内心びくびくしていた。初心者としては、食べものもあるお店の方が親しみやすい。

「実は裏メニューで、昔ながらのプリンがあるんです。香月ブレンドとよく合うので、よろしければいかがでしょう?」

「おいしそうですね。ひとつ、お願いします」

「ありがとうございます。準備いたしますので少々お待ちください」

 カウンター席って、どこを見ていればいいのかわらからない。ついつい店員さんの動きを観察してしまうけれど、じっと見つめていると「はたしてこれでいいのだろうか?」と不安になってくる。大人っぽく振る舞うのはもう諦めた。彼の手元をちらりと覗くと、レトロ、というか実際に昔から使われていそうなガラスのプリンカップに乗った、黄色いプリンがちらりと見えた。プリンの上にはホイップクリームとさくらんぼが乗っている。

「珈琲を淹れるところ、見ていてもいいですか?」

「もちろんです。ちょっとだけ、緊張しちゃいますが」

「いないものと思ってください」

 コーヒーを淹れるための器具を用意した彼が、伏し目がちに笑う。その笑顔はさきほどまでの微笑とは違う、ほんのり砕けたものだった。

「どうしてうちに来てくださったんですか?」

「家が近くで。歩いていたら、見つけたんです」

「お近くなんですね。わかりづらい場所にあるからか、昔からこのあたりにお住まいの方しか来られないんですよ。来てくださって嬉しいです」

 この雰囲気では、珈琲通な大人のお客さんが大半だろう。年齢的には私ももう大人だけれど、ハタチにとっての大人というものは30代以上というか、40代以上の親世代というか、余裕があってどんと構えているようなイメージがあるのだ。こんなちんちくりんが同じ“大人”という括りに入れられてしまうなんて酷な話だ。私はまだ、大人の面を被ったおとな子ども。

「こちらが自家焙煎の珈琲豆です。これからこの豆を挽いて、ドリップしていきます」

 銀のトレーを満たす焦茶色のつやつやを覗き込むと、珈琲豆特有の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。その匂いはカフェチェーンの店内で感じたインスタントなものとは違う、さまざまな匂いが重なった深みのあるものだった。

「苦いもの、お得意ですか?」

「いえ……今回は大挑戦です」

「かしこまりました。なるべくまろやかになるように淹れますね」

「えっ、そんなこともできるんですか?」

「抽出時間やお湯を注ぐ回数で、かなり味わいが変わるんです」

「すごい……」

 コーヒーミルで豆を挽いた店員さんは、手際よく工程を重ねてゆく。コーヒーケトルから注がれるお湯は一定の量でゆったりと円を描いて、ガラスのサーバーに落ちる褐色の液体は徐々に色が濃くなっていった。ふわりと香った芳しい匂いに、胸が躍る。「おいしそう」と思えることが嬉しい。店員さんは背面の棚に飾ってある食器のなかから藍色の珈琲カップを選んで、珈琲を注いだ。

「お待たせいたしました。香月ブレンドと、プリンでございます」
「ありがとうございます」

 なんて完璧な光景なのだろう。脳は味覚よりも視覚を優先すると聞いたことがあるけれど、味を目で見るとは、こういうことなのかもしれない。カップを満たした濃褐色の珈琲、そしてレトロなビジュアルのかわいらしいプリン。私は「いただきます」と呟いて、珈琲カップに口をつけた。おそるおそる、どきどきしながら、ひとくち。

 珈琲は、やっぱり苦い。だけれど、なんとなくわかって、ハッとした。甘みやまろやかさ、柔らかさというものが、この苦味のなかに存在していること。それはやさしく隣り合って、この穏やかな味わいを作り出している。私は感動してしまって、カップを手に持ったまま液面を見つめた。

「……すごく、おいしいです」

「よかったです。ほっとしました」

「仰っていたことがなんとなくわかって、感動してます」

「ぜひまた、他の珈琲も飲みにいらしてください。次のおすすめも、考えておきます」

 黄色と茶色のコントラストがうつくしい甘味の存在も忘れてはいけない。珈琲を飲み干す前にプリンだ。柄に繊細な模様が入っているシルバーのスプーンを持って、カラメルがかかったやわらかい山頂をひとすくい。中央のホイップクリームをちょっとつけて、口へ運ぶ。苦い珈琲を飲んだあとだからか、卵本来の甘みをより鮮明に感じた。固めの食感がアクセントになっていて、スプーンが止まらない。珈琲との相性はたしかに抜群で、お互いの良い特徴を引き立て合っている。とてもやさしいコンビネーションだった。

「プリンもすごくおいしいです。ほんのりバニラの匂いがしますね」

「隠し味というほどでもありませんが、バニラエッセンスを使っています。そちらのプリンは、サービスです」

「えっ、そんな」

 にこりと微笑んだ店員さんは、はじめからそのつもりだったらしい。払わせてください、と懇願したい気持ちだったけれど、せっかくのご厚意を否定するのも無粋な気がする。

相馬彩そうまあやさん、ですよね。お誕生日、おめでとうございます」

 私は目を瞠った。この店員さんとは、はじめて会ったはずなのに。今日が誕生日だということも、お店に入ってからは忘れていた。自分のご機嫌は完璧に取れたらしい。

「はじめまして。熱を出したあなたの友達の、兄です。波木裕なみきゆう、といいます。佐良さんと写っている写真を何度か見せてもらったことがあって、すぐに気づきました。驚かせて、ごめんね」

 眉尻を下げて笑った彼の淡い瞳と、視線が重なる。——言われてみればなるほど友達と鼻の形がちょっと似ている、と思ったけれどお兄さんがこんなにお洒落で眉目秀麗な方だとは聞いていない。このお店に入ってからずっと速い心臓は純粋な緊張のせいなのかどうか、もうわからなかった。

「お兄さんだったんですね。相馬彩です。また、波木さんの珈琲を飲みにきます」

「ありがとう。いつでも、お待ちしております」

 香月ブレンド、850円。人生でいちばん、高い飲みもの。常連を目指すのは無謀だろうか。芳しい匂いを連れて、密かににやけながら帰り道を歩く。私が珈琲博士になれる日も、そう遠くはないような気がした。


Fin.


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