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短編小説『先生の左手』

 大学の心理学部に入学して二年。毎週金曜日、実験心理学の授業のあと、羽藤先生の研究室に入り浸ることは私の日課になった。廊下を歩きながら、今日の授業で学んだ「心理的リアクタンス」について頭のなかで反芻する。やってはいけないと禁止されたことほどやってみたくなる、やりなさいと強制されたことほどやりたくなくなる、外的な理由によって失われた選択肢を魅力的に感じる、といった現象を説明する概念が心理的リアクタンス。禁止されるとやりたくなる現象は、「カリギュラ効果」としても有名だ。私はこの現象に昼夜悩まされている。先生に会いにいってはいけないと思うほど会いたくなる、彼にこんな感情を抱いてはいけないと思うほど、歯止めが効かなくなる。そして今日も私は、研究室のドアをノックする。

「失礼します」

「空野、また来たのか」

「毎週、来ますよ。今日の授業も面白かったです」

 この部屋はいつも、コーヒーの匂いがする。先生はレポートの採点をしているらしかった。私は勝手に空いている椅子に腰掛けて、ぼんやりと先生を眺める。出会ったころよりも伸びた黒い髪、よく着ている紺色のシャツと、深いブラウンのスラックス。今日は何を質問しようかと考えながら、紙の上をすらすらと滑るペン先を視線で辿った。先生の利き手は左。夏休み明けから、その薬指はまっさらになった。

「コーヒー、飲んでいくんだろう」

「はい。私、いれますよ」

「いや、いい」

 先生が立ち上がって、ガラスのサーバーを満たした焦茶色の液体をマグカップと紙コップに注ぐ。私は紙コップを受け取って、口をつけた。

「まだ熱々ですね」

「さっき淹れたばかりだ。今日の質問は?」

 私は机に紙コップを置いて、両手で頬杖をつきながら先生の瞳を見上げる。その瞳は、淡い琥珀色。先生は怪訝そうな表情を浮かべて、私から目を逸らした。

「カリギュラ効果、って学術用語ではないんですよね。どうして、カリギュラなんでしょう」

「あぁ、ジャーナリスティックな用語だな。『カリギュラ』という洋画がボストンの映画館で上映禁止になったとき、上映館に観客が押しかけて大ヒットしたという話が、カリギュラ効果と呼ばれるようになったきっかけだ。今日の授業で扱った心理的リアクタンスの一種だな」

「なるほど、映画がきっかけだったんですね。先生は、禁止されたことをやってしまった経験ってありますか?」

 ペンをくるりと一回転させるのは先生の癖。視線を伏せた先生は、なにかを思い出したようにふっと笑った。

「私が高校生だったころ、大学で心理学を学んでいた先輩に、心理なんか学ぶもんじゃないと言われた。そのおかげでさらに興味が湧いてしまった側面は、否めないな」

 先生が心理学を学びたいと思ったきっかけは高校生のころ憧れていた先輩だと聞いたことがあるけれど、同一人物だろうか。

「今なら、あの人が言っていたことの意味もほんの少しわかるような気がするよ」

 私にはまだ、わからないけれど。わからないから、私はここにいられるのかもしれない。

「……羽藤先生。私、もう遠慮しませんよ」

 先生は、左手に持っていたペンを机に置く。私は先生のペンを手にとって、右手でくるりと回してみた。



こちらは「研究室での大学教授と生徒の会話のワンシーン」をテーマに、大学の授業で提出した作品です。1200字程度という文字数制限の中でぎゅっと展開を詰め込むことが難しかったですが、想像していたよりもよい評価をいただけて嬉しかったです。お読みいただきありがとうございました!

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