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短編小説『万華鏡をみているみたい』

 万華鏡をみているみたい。初恋はそういう、魔法だ。

 使い古した有線イヤホンをして、再生ボタンを押す。つくりものの声がつくりものの恋を歌う、それなのにどうしてか私のこころは揺らぎ、今日も生き生きて痛みを感じている。

 初夏の湿り気に項垂れながら立ち寄ったコンビニ、覗き込んだ色とりどりのアイスたち。あのころ鮮明にみえていた世界と今私が眼差す世界は、なにか変わってしまったのだろうか。不意に引き戻されて鼻の奥がつんとするような、そんなきっかけが多すぎる。もやがかかってしまった、穏やかな微笑みを思い浮かべた。

 私はチョコミント味のアイスをかじりながらもうすぐ寿命を迎えそうなイヤホンをして、あの日知った音楽を聴く。懐かしい味、音、空。容易に立ち返ってしまうこのこころは、あの日みた世界の色から遠ざかってゆくほどにつよく焦がれて、磨り硝子越しになった記憶を美化してゆく。

 ——17歳。大人と子どもの狭間で宙ぶらりんな自意識がちょっとささくれて、まっすぐ生きようと伸ばす背筋の邪魔をする。

 遠く、輪の中心で笑うきみを見ていた。知らなかった痛みが増すたびに、世界はひとつひとつ色づくみたいだ。二律背反に生じてしまう痛みと高鳴りはポケットの中で絡まったイヤホンみたいに煩雑で、展開も因数分解も意味を成さない。上手な生き方なんて、きっとだれも知らなかった。

「あ、水瀬みなせさん。おはよう」
「え、あ、……おはよう」

 あやくん。今日もその名前は呼べないまま。昼下がりの太陽のように暖かい笑顔は、声の渦と混ざり合いながら去ってゆく。森沢もりさわ彩くん。絵に描いたようなクラス一の人気者。彼と初めて言葉を交わしたのは、遡ること一週間前、突然の夕立に見舞われた放課後だった。

   *

「うっわサイアク、雨かよ!!」
「ヤベーおれ傘持ってねぇんだけど」

 そんな声がざわざわと下駄箱にあふれる16時半。私も内心共感しながら、昇降口で雨宿りをしていた。夕立だから少し待てば止みそうだけど、低気圧のせいか頭が痛い。こんなことなら折りたたみ傘をロッカーに入れておけばよかった。

 しても仕方のない後悔、こういうのを毎日繰り返しているとちょっとずつこころが重くなって、どうしても下を向いてしまう。ぜんぶ自業自得だって割り切るにはまだ、あきらめが足りない。ひび割れたちいさな感情のひとつひとつが、思春期だ五月病だっていっしょくたに片づけられる。そのとき感じる絶望感を知らないまま、みんな大人になるのだろうか。それがみんなの言うフツーなんだとして、瑣末で厄介な感情ばかり積もり積もってうまく笑えなくなってしまう私は、いつもなにかを間違えている、ボタンを掛け違えてしまっている、そんなきもちになる。

「よっしゃ、駅まで走ろうぜ」
「勝負な! アイス全員分、ビリのやつの奢り」

 雨。重くなってゆく思考ごと、流してくれたらいいのに。地面に打ちつけられては滲む雨粒、それをぼんやり眺めていた刹那。昇降口からばっ、と駆け出してきた集団、彩くんが所属しているバスケ部の男の子たちがリュックや部活用のバッグを雨除けにして全速力で走っていった光景、水たまりから跳ねた水滴のかがやきを、今も鮮明に覚えている。

「あいつら馬鹿だよね。この雨ならあと10分もすればあがるのに」
「え、っと」
「急にごめん。僕、森沢彩。水瀬さんとはまだちゃんと喋ったことなかったよね」
「あ、うん、水瀬いのり、です」
「よろしくね。そんなにかしこまらなくていいよ」

 教室の隅から後ろ姿を眺める、それだけで満ち満ちていたはずなのに。初めて真正面からみたやさしげな顔も、向けられた穏やかな微笑みも、柔い低音が乗せる、僕って一人称の意外性も。頭で気づくより早い速度で、こうも鋭く胸を打つ。突然の夕立みたいに視界一面が彼一色になって、もう一瞬だって目が離せない。

「あ、それ。いつもなに聴いてるの?気になってたんだ」

 彩くんの視線の先、しまい損ねて手のひらからぶら下がっている有線イヤホン。絡まりをなんとなく解きながら、そっと彼の表情を窺う。

「いろいろ、聴いてます」
「いろいろ、か。水瀬さんのおすすめ、教えてよ」

 やさしく下がったまなじり、右目の下に、涙ぼくろ。重なってしまった視線に戸惑う。

「……最近は、秋けむりっていうボカロPさんの、“おもひね“って曲をよく聴いてます。おすすめです」
「えっ、まじで?」
「うん、知ってる……?」

 十年以上も昔。ほんの一度だけ、幼心に感じたものの正体はこれだった。万華鏡。はじめて覗いた、細やかで絢爛で色めく世界。彩くんは、万華鏡みたいにみるみるうちに表情を変える。私は毎秒、その移ろいのうつくしさに見惚れてしまう。瞬きをした次の瞬間にはまた、ちがう色。だから、こんなにも。こんなにも胸を騒がせて、熱くする。

「実は僕もすごく好きなんだよね。ボカロ好きな人、高校入ってから初めて出会ったよ。しかもほら、けむりさんってまだあんまりメジャーじゃないから、人に言ったことなくてさ」

 矢継ぎ早にぽんぽん出てくる言葉のすべて、その一音一音に色とりどりの表情。そんなふうに言葉を彩れたなら、私も彼のようになれるのだろうか。あざやかな色を纏って、世界をつかんで、煌めくことができるだろうか。

「いい、ですよね。なんだか、感情に寄り添ってくれるというか……」
「わかる、聴いてて心地いい。水瀬さんの言葉選び、しっくりくるよ」
「いや、そんな」
「あるよ。そんなこと、ある」
「……ありがとう?」
「あ」
「え?」
「雨、あがったね」

 やんだね、じゃなくて、あがったね。の響きが、ぽたりぽたりと昇降口の屋根から落ちてくる水滴の音と重なる。植えられた紫陽花がつやつやひかって、それを背景に立つ彼のワイシャツの白が、青紫色とじんわり馴染んでいった。

「じゃあ僕は、そろそろ行こっかな」
「あっ、あの……!」

 初めてだった。誰かをあんな風に、呼び止めてしまったのは。心臓がはちきれんばかりにばくばくと動いて、こんなきもちを受け止めきれない身体は震えてしまう。前を向いた彼の瞳、そのかがやきが映す世界をすこしだけ覗いてみたい衝動が、怖気付いたこころを追い越してゆく。

「えっと、その、森沢くん、」
「彩、でいいよ」
「……あの、彩くんのおすすめも、知りたい……です」

 そのなまえの響きを何度も頭の中で反芻して、確かめた。こちらを振り向いて、うーん、と考えるように斜め上を見た彼は、雨上がりの空を仰ぐ。

「実は僕も、“おもひね”がいちばん好きなんだよね」
「そっか。すごくいいですよね」

 思い馳せるように、笑う表情。視線は交わるのに、そこに浮かんだ色は私に向いたものじゃない、瞳。

 思ひ寝。ものを思いながら、眠ること。とくに、恋しいひとを思いながら眠ること。

 彩くんは誰を思い浮かべて、“おもひね”を聴くのだろう。

「でも」

 一歩。私の方へ歩を進めた彼が、視線をゆるりとどこかへ逸らす。

「あえて今日おすすめするとしたら、“雨曇り、のち、紫”かなぁ」
「雨曇り、のち、紫……」

 彩くんが口遊んだうつくしい音をくりかえして、それからふと、彼が眼差す先には紫陽花があることに気がつく。

「僕、雨って嫌いじゃないんだよね。濡れるのはちょっとやだけどさ。雨粒越しに色んなもの見てるときらきらして見えるのが、子どものころからすごく好きで」

「そんなこと、考えたことなかったです」

「濡れた傘越しに見上げる空とかさ、結構綺麗だよ」

 そういう視点から世界をみている彩くんだから、彩くんが纏う世界はうつくしいのだということ。それをもっとシンプルな言葉で伝えられる私だったなら、明日の朝空がどんな色をしていたって、きれいだって思えるのだろう。

「雨の日や雨上がりにはうってつけの曲だよ」
「……ありがとう。今日、雨が乾かないうちに聴いてみます」
「うん。それじゃ、また」
「うん、また」

 帰り道、私は“雨曇り、のち、紫”を聴いた。彩くんと話す前は雨があんなにも嫌だったのに、私の気持ちは信じられないくらい晴れやかで、足取りも軽くなっていた。世界が色鮮やかに見える魔法にかかってしまったような心地だった。

 *

 あの夕立の日から、彩くんとは挨拶以外の言葉を交わせていない。彼はいつも人に囲まれていて、そこに突っ込んで行く勇気はなかった。この距離はきっと変わらないのだろうなと、彼のまぶしい後ろ姿を眺める。そういう自分を変えられないのは、自分だから。

 校門を通って下駄箱を抜け、階段を登っていつもの教室。斜め後ろからこっそり思い馳せていられる時間は、あとどれくらい残されているのだろう。ノートの罫線上に走らせるシャーペンの音が重なる。うまく言葉にできない感情たちが頭のなかで渦巻いては、みぞおちの底へ溜まっていった。

「あ、水瀬さん」

 帰り際、下駄箱。手に取ったばかりのローファーが、ごとんと音を立てて床に落ちる。彩くんが、私を呼んだ。

「ごめん、びっくりさせちゃったね」
「えと、いや、大丈夫です。ごめん」
「水瀬さんは何も悪いことしてないよ」

 彩くんはいつも突然現れて、つかめないまま、みえなくなる。彼があんまり自然に靴を履き替えるものだから私も慌てて外へ出たけれど、こんなとき何を話したらいいのかこれっぽっちもわからない自分がうらめしい。

 「水瀬さんに聞きたいことがあるんだけど、せっかくだから一緒に駅まで歩かない?」

 戸惑いながら頷けば、彩くんは笑う。それが私にとってどんなに尊くて奇跡的なことか、彩くんはきっと、一生知らない。

「私に聞きたいことって……?」

「いや、水瀬さんにとってはきっとそんなに大袈裟なことじゃないと思うんだけどさ。水瀬さんがまだ有線のイヤホンを使ってる理由、聞きたくて。ずっと気になってたんだ」

 彩くんが、また、笑う。そよ風が凪ぐみたいに、この心持ちごとふわりと包んでしまう。想定外の方向からやってきた問いかけ、挨拶だけを交わした日々にほんの僅かでも私が存在していたこと。気づいてしまうと居た堪れない面映さに、逃げ出したくなる。

「はじめて、聞かれた。たしかに今時珍しいですよね。ワイヤレスの方が便利そうだな、とは思ってるんですけど……」

「うん。水瀬さん、すごく大切に使ってるように見えたから、思い入れあるのかなって」

「……思い入れ、なんでしょうか。有線のイヤホン、使ってる理由は」

 ポケットの中から、白いそれを取り出してみる。ぎゅっと握りしめて、すこしだけ彼の方を向いた。

「より一層、つながれるような気がするから、です」

 息が詰まって、言葉があふれて、結局取りこぼして、顔があつい。

「それは、音楽と、って意味?」

 駅になんか永遠に着かなくていいのに今すぐ電車に飛び乗りたい。そういう矛盾した感情になってばかりで、それは、いつか消えてしまうものほどうつくしく見えてしまうことと、少し似ている。

「……そう、です。聴いている音楽と、それをうたったり奏でたり、作ったりした人と。音楽詳しくはないんですけど、なんとなくそんな気がして」

 誰にも話したことがなかった、話すつもりもなかったことを、なぜか今話している。本当は有線だってワイヤレスだって変わらないとわかっているのに。なんだか、恥ずかしくなってきた。

「僕には上手いこと言えないけどさ、すごくいい理由だね。聞けてよかった。たしかに、つながりが物理的に見えるってだけで、そのつながりをより強く感じられるかもしれない」

 彼は前を向いて、また、天を仰ぐ。あの日とはちがう晴天の青さに、彩くんは一体なにを見て、感じているのだろう。ひかりを受けて輝く淡い瞳が眩しくて、ちょっとだけ目を逸らす。心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような苦しさには、気づかないふりをした。

「……“雨曇り、のち、紫”、聴きました」

 穏やかな横顔にそっと、呟いてみる。彩くんの瞳がゆるりと泳いで、手持ち無沙汰な私を映した。視線が重なるとまた心臓は跳ねて、ふわふわとした浮遊感が私を現実から切り離す。

「あの曲、聴くとさ。雨もあんまり悪くないかも、って思わない?」
「思った。すごく、思いました。世界の見え方を変える曲って素敵だな、とも」

 ちょっと顔を傾けて、口端をそっとあげて。控えめなやさしさがくるんだ言葉は、私の惑いを素直にする。雨は、頭が重くなって俯いてしまうから好きじゃない。だけれど彩くんを真似て見つめる雨粒ときらめく世界はとても綺麗で、いつまでだって眺めていたい、そんなふうに思えたのだ。

「僕も、そう思う」

 全部受け取ってくれたような顔して笑う彩くんに、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、近づけたような気がした。

 *

 秋けむり。夏終わり。私と彼を繋いでくれた夕立も紫陽花も過ぎた季節、彩くんとはたまに、音楽の話をした。夏の盛りに出た秋けむりの新曲はちょっとした心の機微ゆえにすれ違う人間関係を歌詞に乗せた曲で、彼と私はその曲に対して抱いた解釈や印象を、帰り道のほんの僅かな時間で余すことなく語り合った。

 彩くんが音楽や言葉やひとつひとつの表現に対してもつ眼差しには、やっぱり世界の見え方を一転させるような鮮やかさがある。うまく言葉にできない感情さえもそのままそこにあっていい、そんな気持ちにさせてくれるような包容力のある言葉遣いに惹かれるまま、私の言葉は幾分かまっすぐと、喉元を通り過ぎてくれるようになっていた。

 彩くん、おはよう。彩くん、またね。
 ひぐらしの鳴く音が窓越しに響く夏の終わり、彼には恋人ができたのだった。

 斜め後ろから背中を見つめる日々にまた戻っただけだと自分に言い聞かせながら、有線イヤホンは机の引き出しにしまったまま。素直じゃないけど強烈な感情、そういうものが芽生えてしまっていたことからずっと目を背けて、ただ見つめていられればそれでいいなんて控えめなふりをした。きっと私は耐えられないから。

 私の隣を歩きながら天を仰ぐときの、瞳のきらめき。その瞳と視線が交わった時の高鳴りも、そよ風のようにそっと笑うあの顔も、アイスはチョコミント味が好きで、理由は“邪道ポジションのくせに味の主張が激しいから”なんていうところも。

 めくるめく日々のすべてが波のように押し寄せて、きらきらひかって色を変える。私をつかんで離さない世界がぐらりと眩んで、わたしは躓いてしまいそうになった。

 私、彩くんのことが好きです。

 玉砕する覚悟なんかなかった。だから、これでいい。諦めたつもりになってしまいこんだすべては、絡まったイヤホンなんかよりよっぽど厄介だ。彼を見ていると、どんな解法を身につけても太刀打ちできない事象に直面してばかり。

 ねぇ、彩くん。私はもう、聴けなくなっちゃったよ。だからもう、私には話しかけないでね。独りよがりで勝手な願いだから、きっと叶わない。わかってたから、泣けなかった。

「水瀬さん」

 澄みきって柔い、彩くんの声。それがほんのちょっと揺らいだように思えるのが苦しくて、それでもその声に呼ばれればいつだって、振り向いてしまう。

「……彩くん。どうしたの?」

「今日、久しぶりにさ、一緒に帰らない?」

 もう、こんな日は来ないと思ってたのに。どうしたの、そんなに思い詰めたような、切羽詰まったような、私の知らない顔をして。

「でも」

 きみには、もう。

「いや、言い方が悪かった、ごめん。水瀬さんに、聞いてほしいことがあるんだ」

「……駅まで、一緒に帰りましょう」

 一緒に帰りましょうと私から言うのだって初めてで、これは最初で最後なんだろうと気づいてしまえば胸が苦しい。

「ごめん、急に誘って」

 真っ直ぐ前を向いて、なのに視線はなんだか宙ぶらりん。首を少し横にふりながら、「ううん、大丈夫だよ」って呟いた自分の声のか細さに、泣いてしまいそうになった。

「僕、ずっと好きなひとがいて」

 思い返す横顔はいつも、天を仰いでばかりだったのに。俯いたその横顔はなんだか空虚で、もっと届かない場所にいる。

「夏の終わりに、やっとの思いで告白してさ。恋人が、できたんだ」

 彩くん。なんでそんな表情かおをするの。彩くん。どうして、泣きそうな声で。彩くん、わたし、これじゃ泣きじゃくったりなんかできないよ。

「おかしいよね、こんな報告、もっと上機嫌にするもんだよね。……せめて得意げに、もっと酷にさ」

 彼が発する一言一句。その揺らぎを聞き逃さないように、表情の移ろいを取りこぼさないように必死で、息が詰まる。泣きそうに笑う彼の表情ははじめてで、私には知り得ない彼がたくさんいるのだということを今更実感した。そういう当たり前のことに胸を痛める浅はかさが嫌になって下を向く。私が自分を責めたところで、彼が抱えているなにかが軽くなるわけではない。この手のひらの温度ではきっと、彼のこころをあたためることはできないのだ。

「水瀬さんには話さないと、嘘をついてるみたいで。……結局、楽になろうとしてるだけなんだけどね」

「どういう、こと?」

「勝手で、ごめん。公園に寄ってもいい?」

 もう一度ごめんと言った彼に頷く。彩くんはきまりが悪そうな様子で、ありがとうと伏し目がちな微笑をした。たまに隣を歩いたあの夏みたいにコンビニへ寄ると、私はサイダー、彼はメロンソーダを買って、ちいさな滑り台とベンチだけがある駅近くの公園へ向かう。道中、彼は道端の草花や白線を眺めるばかりで、一度も空を見上げなかった。

「……どこから話したらいいか、正直僕もわからないんだ」

 言葉の通りの表情を浮かべたまま、ぷしゅっと音を立てたメロンソーダ。ごくりと上下した喉仏を横目に、懐かしさを持て余しながら私もサイダーを飲む。うしろを振り向けば、あの夏はまだすぐそこにいるはずだったのに。

「どこからでも、いいよ。私はただ、横にいるから」

「水瀬さんならそう言ってくれるってわかってたから話しかけた僕は、ほんとにずるいな」

 俯いて、メロンソーダをもうひとくち。ふたりの間にある距離だけが切り取られて、夏に取り残されてしまった。ペットボトルについた水滴がぽたりと落ちる。砂に染みたいびつな点は、私のこころを転写したみたいに不恰好な灰色をしていた。

「なんの罪滅ぼしにもならないけどさ、水瀬さんの願い、なにかひとつ聞かせてよ」

「なに、それ」

「僕が叶えられることなら、なんでもひとつ叶えます。空を飛ぶとかは、さすがに無理だけど」

「……どうかなぁ」

 私の願いはたぶんどれも、彩くんに叶えてもらうには欲張りだ。

「考えておきます。だからそのまえに、彩くんの話、聞かせて」

「そう、だね。ごめん」

 夏は過ぎ、秋の起き抜け。乾いた風が吹いて、木の葉を揺らす。隣でゆらいでいたさざ波は止んで、その代わり、彼からその波があふれてゆくのを、隣り合う気配でなんとなく感じた。

「……僕の恋人は、同じ部活の佐野なんだ。わかるかな、あの、前髪がちょっと長い」

 佐野夕季さのゆうき。真っ黒な髪と線の細い背中が頭に浮かぶ。クラスが同じ彼とは、私も数度話したことがあった。落ち着いた低い声と前髪からちらりと覗く切長の目を思い出しながら、ゆっくり頷く。

「佐野くんだったんだね。彩くんの、恋人」

 なるべくまっすぐ、穏やかに。濁った私のこのきもちが、どうか混じってしまわないように。向けた言葉は葉擦れの音と同化してゆくように、くうへ消えた。

「好きとか嫌いとかそういうのは、自分の物差しだけで測るんだって思って生きてきた、はずなのにな」

 俯いていた彼が、顔を上げる。私は彼をまっすぐに見た。彼は空を仰いでいる。その瞳から一雫、青がこぼれた。

「苦しいんだ。すごく」

 切な声音の、こわれてしまいそうな震え。関係のない私まで、喉奥がじりりと焼ける。胸に立ちこめるもやのようなこれは、共感なのか反感なのかすらもわからない。だけれどただひとつ、ずっと前からわかっていることがある。今だ。

「……私も、彩くんに話したいことがあります」

 彼の唇が空気を食むより早く、大きく息を吸い込んだ。彩くんがみせてくれた極彩色な世界の空気を、全身で頬張るように。

「私は、彩くんのことが、好きです」

 玉砕するつもりなんて、なかったのに。言葉にしてしまった途端迫り上がってきたものはたぶん涙で、でも私はいま、笑っている。重なった彼の瞳に映る色を見つめながら、もう一度深く呼吸をした。

「あの日、私に話しかけてくれた彩くんのことも、ボカロの話をしてるときの彩くんも、チョコミントのアイスを食べる彩くんも、今ここに、私の目の前にいる彩くんのことも。私は、好きです」

 目の前でほろほろとこぼれ落ちてゆく空の色を見つめながら、ぎゅっとスカートの裾を握りしめる。終わってゆく夏、きみとの日々と、ぬるくなったサイダー。はじまったものはいつか、ぜんぶ終わる。終わり方がきれいじゃなくても、いつかぜんぶきれいに消える。わかっているからもう、何も怖くはなかった。

「彩くん。全身全霊で、好きだったよ」

 終わりはいつも呆気ない。だけれどそれと同じくらい、はじまりは他人顔をしている。本当は心を侵食してくるものの正体をよく確かめたいのに、必死でもがくのに、気付いたら頭のてっぺんまで浸っている。沈んで、染まっている。そしてそこから抜け出すのにはもっと勇気が要るということを、今ここで初めて知った。

「よくわからなくても、うまく笑えなくても、いいんじゃないでしょうか」

 胸の奥底で必死に抱きかかえてきたものたちが、手のひらから、くちびるから、瞳から、ぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。

「うまく話せなくても、器用に生きられなくても、いいんじゃないでしょうか、」

彩くんのをみる。立ち上がった彩くんはまっすぐ私と向き合って、多分おんなじ表情かおをしていた。

「だって、そういうことを私に教えてくれたのは、彩くんなんだよ」

「……夕立、みたいだ」

 私の頬に、そっと触れてきた体温。はじめて触れ合った肌と肌。彼の指先はどこまでも繊細で、今までに感じたどんなぬくもりよりもやさしいそのこころが、満ちるようにこもっていた。

「彩くん。もっと、涙とまらなくなる」

「僕たちいま、おんなじ顔だね」

 私も同じように手を伸ばそうとして、でもやっぱり、それはやめた。私がほしかったのはこのぬくもりで、だけれど彼がほしいのは、ちがう。彩くんはきっと、わかっていたのだ。私の中にあったはじまりと、今日という終わりのこと。そして彩くんの中にもきっとある、つかめそうでつかめない煌めきのことも。

「……水瀬さん、もうひとつ、わがまま言ってもいいかな」

「いいよって言わなくてもきっと、彩くんは言う」

 彼が、私の手を取る。夕立みたいにあふれた涙を拭って、つよい瞳《め》をした彼が目の前にいた。

「走ろう」

 駆け出す。置いていかれないように。いつか追いつくように。そしてきっと追い抜くために。彩くんの、肩が揺れる。背中。いつも、教室の斜め後ろから見ていた白いワイシャツ。つながった指と指の危うげな空白と、その間にある確かな繋がり。

 走って、走って、この感情があふれてこぼれ落ちてしまうよりも速く、走った。

 めくるめく日々。鮮やかな世界。知らない道、知らないお店。知らない角を曲がって、燃えるような夕焼け空が私たちを待っている。息を切らしてしゃがみ込んだ河川敷、暮れなずむ空を眼差しながら、ふたりしてちょっとだけ笑った。

「万華鏡をみているみたい、なんだ。彼とみる世界は。万華鏡みたいに煌めいて、移ろって、どうしてもつかめやしなくて、苦しくて」

 私の初恋が、終わってゆく。はじまったばかりのきみの恋が、うつくしく揺れている。

「私も、苦しくて、たのしかった。ありがとう。私を、みつけてくれて」

 おもひね。私が思い浮かべながら眠るきみと、きみが思い馳せる彼。

 青へ沈んでゆく橙色のひかりが、夜とハイタッチして水平線に消える。

 うまく生きられなくたって夕立に濡れたって、こうして日は暮れて、夜になり、また朝がくる。1曲だけが永遠にリピートされるような日々の重たさに、つぶれてしまわないように。勝てなくたって、負けてしまわないように。必死の全身全霊で、きみをみていた。恋をしていた。

「私の願いをひとつ聞かせて、って言ったよね」

「うん、聞かせてほしい」

 私と彩くんの間に、風が吹く。湿気を孕んだ川沿いの風は、夕立があがったあの日の匂い。立ち上がって、大きく息を吸い込んだ。

「きっと、幸せな恋をしてください」

 それが私から言える、ただひとつの、たったひとつの、願いだ。

 *

 使い古した有線イヤホンの片方が、ざらざらとした雑音を残して音を失う。家電量販店のレジ袋から真新しいヘッドホンを取り出して、古いプレイリストを遡った。

 おもひね。雨曇り、のち、紫。私はきっとまた、恋をする。そしていつかは、忘れてゆく。いつだって頭上に広がっている空、流れゆく雲と見上げる瞳。それが、あの日の私と今の私を、あの日のきみと今日をどこかで生きるきみを、繋いでいる。

 梅雨明けの快晴に、名残を残す紫陽花の色。一歩踏み出して押した再生ボタン、聞き慣れた一音目はなんだか、初めて聴いた音みたいに鮮烈に、うつくしくこの耳に響いた。

 彩り、きらめくあの日の初恋。世界を変えた、ちいさな恋の話。
 万華鏡をみているみたい。初恋はそういう、魔法だ。


𝘍𝘪𝘯.

極彩色の空をみていた


 夕立があがったあとの晴天みたいに笑う、彼女は言った。

『きっと、幸せな恋をしてください』

 薄暗い雲が残る雨あがりの空のように、下手くそな笑みを浮かべるほか、どうしようもない僕だった。

 壊れたワイヤレスイヤホンを手のひらに持て余しながら、机の隅に転がっていた有線のイヤホンをスマホへ差し込んでみる。再生された人工の声、あの日みた紫陽花のあざやかな紫を探すために、靴を履く。

「彩、どっか行くの?」
「あぁ、うん、ちょっと散歩に」
「できたらアイス買ってきて」
「わかった、いつもの?」
「ん、いつもの。ありがと」

 起き抜けの夕季が無造作に髪をかきあげながら、気をつけてね、と眠たげに言う。玄関にふたつぶら下がった鍵をひとつ手にとって家を出た。

 ぶらぶらと見慣れた道を数歩進んだだけで、じっとりと汗をかく。梅雨明けの快晴は容赦がない。初夏の陽射しが、刺すような強さで照りつける。イヤホンから響く音は、季節に見合わず梅雨の音楽だ。陽の光を受けて煌めく川面のかたわら、しゃがみ込んだ芝生から漂う青い匂いがこころを丸ごとあの日へ引き戻す。

『水瀬さん、久しぶり。同窓会の話、聞いた?』

 ありきたりな定型文。それしか思い浮かばない、時間の距離。彼女の控えめな笑顔がちらついて、もう一度スマホの画面を開く。

 『僕は、幸せに生きています』

 あの日、きみとみた雨上がりの空。紫陽花の青紫に、夏の影、蝉の合唱とコンビニ、汗をかいたメロンソーダ。立ち上がって深呼吸をすれば、なまぬるい夏の風がからだを満たす。それでもこころは爽やかに凪いで、きみの隣を歩いた日々のように、穏やかに澄んでゆく。

 あの日の道を辿るたび弾けては消えるあぶくのような記憶が、ひとつひとつ脳裏を駆け抜けては胸をぎゅうと締めつけた。大人になりたくて堪らなかったあのころ、背伸びをしたってなりきれやしなかったのに。そこへ辿り着いてしまった今は、足りなくて満ちなくていびつで不恰好だったあのころの自分に、こうしてふと、戻りたくなる。

 ないものねだりってのは多分、その味を知っているのだ。なにも知らなかったなら、ないものなんてほしくならない。あのころの僕らはすべてを知ったような気になって、それなのに手は届かないから、まるでなにも持っていないみたいだった。そうやってあるものを見落としたりないものをねだったり不器用に、だけれどたしかに足跡を刻んで、あてもなく時を進めてゆく。今だってまだ、あの日の続きにいるのかもしれない。

 遠回りをしながらたどり着いた公園のベンチ、ぷしゅっと音を立てたサイダーはぬるくてあんまりおいしくないけど、たまには慣れない味も悪くない。きみは、僕に恋をしてくれた。そのかがやきのつよさに、僕はいつでも焦がれていた。きみがいて、僕がいて、そして、人を思うことを知った。だから僕は、人を思う幸せのなかにこうして今も生きている。

 あの日僕を思って泣いたきみのやさしさが、どうかきっと、あたたかな陽だまりに包まれていますように。きみの幸せを願う権利なんてないけど、それでもなけなしの精一杯で、つよくつよく願っている。

 *

 晴れ。ときどき曇り。夕立、雨あがり。暮れなずむ終わりと、青く深い夜のはじまり。繰り返す日々の移ろいは、それでも今この時しかない色をして、僕らが息吹くちいさな日々をつないでいる。

 きみがもし、空を見上げるのなら。そこに射す光が、きれいにかがやいていますように。きみがもし、空を思うのなら。そこには極彩色の煌めきが、きっと鮮やかに映りますように。僕にこころをくれたきみのこころが、いついつまでもひかりに満ちて、あざやかな色のなかで生きてゆけますように。

 帰り道、あの日とは違うコンビニで、チョコミントのアイスをふたつ。夏の始まりを告げる蝉の声が、時をこえ空を越え、あの日泣き笑い生きていた僕らを紡いで、僕を僕たらしめている。

 僕らはいつでも、極彩色の空をみていた。

 きみの隣、あわせた歩幅と、それぞれの空色、分かち合ったことばの温度。僕らは、生きるよりもっと。鮮やかに煌めく、恋をしていた。

𝘍𝘪𝘯.


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