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短編小説『休みのち、ソフトクリーム』

 心身のバランスを崩して隠居するようになってから1年が経った。ここ数か月で体調がやっと安定してきたのでまずは外に出ることから始めようかと、散歩に出かける。

 誰にも会わないし、身だしなみを整えるのはおっくうだ。働いていたころは毎日フルメイクしていたのにと思いながら深めのバケットハットをかぶって、ぼさぼさな髪の毛もくたびれた顔も隠してしまう。

 ここは、家から10分程度歩いてゆるやかな坂を下ると、住宅街の景色がひらけて海が見える町。海辺の堤防に沿って歩いていくと、いちばん日当たりがいい場所にちいさなキッチンカーが一台。よかった、今日もいてくれた。

 海と空の青を背景に佇む柔いアイボリーのキッチンカーは、私が散歩を始めた頃からこの海辺に姿を現すようになった。

 「うみべのソフトクリーム屋さん」という看板を掲げたそのキッチンカーは、文字通りソフトクリームを売っている。

「いらっしゃい。今日はどうする?」
「ふつうのソフトクリームひとつ、お願いします」
「あいよ、ちょっと待っててね」

 キッチンカーの前でソフトクリームを待ちながら一息。今日は風が穏やかで、海も静かに凪いでいる。
 毎日訪れる私にいつも笑いかけてくれる気のいい店長さんは、シングルファザー。最近顔見知りになったばかりの私が知っている情報は、それだけ。息子さんは今頃小学校で授業中だ。休日にここへ来ると、身長が130cmを超えたと誇らしげに笑う息子さんがソフトクリームを手渡してくれる。

「おまちどおさま。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。ちょっと海辺を歩いてきますね」

 店長さんからソフトクリームを受け取って、穏やかな波が寄せては返す砂浜を歩く。あの店長さんがつくるソフトクリームの味はやさしい。ほどけるように溶けてしまう感触は、ちいさなころ口を開けて見上げた空から降り注いだ雪が溶けてしまうときの、なんとも言えないさびしさを思い出させた。

 ここの景色はいつも変わらなくて、いや、天候によって様相は変わるけれど、大きな海はいつでもそこにあって、その事実が不確かに彷徨う私のこころを繋ぎ止めていてくれる。

 元気になれたらなにをしようか、なんて前向きな気持ちにはなれない。私は、すべてをうしなってしまった。仮住まいのアパートにだって、貯金が尽きてしまえば住み続けることはできない。ならば働かなければならないと、わかっているのに。

 私のこころとからだは今もまだ、すこしだけ壊れているのだ。どこまで歩いたって、その場足踏みをしているだけ。わかっているのに、私は今日も海辺を歩いている。

「そう焦ることないよ。僕もまだ、自分が明日どこにいるかはわかっちゃいない」
「店長さん。いつのまに」

 背後の気配に振り向けば、お店のエプロンを外した店長さんが穏やかな笑みを浮かべて私をみていた。

「今にもどこかへ行っちゃいそうな顔してるから、ほっとけなくてね。早く食べないと、溶けちゃうよ」
「すこし、考え事をしていました。すみません」
「ほら、このスプーン使いな」
「……ありがとうございます」

 気を遣わせてしまった。店長さんが差し出してくれた木製のちいさなスプーンを受け取って、溶け始めたソフトクリームをひとすくい。やさしい甘さが妙に切ないのは、人のあたたかさに触れたから。

「君はもう、休業に疲れてしまったんだね」
「私、仕事はもう失って」
「今は、人生の休業中でしょ?もうすぐ1年、だっけか。そろそろ張り合いがほしくなってくる頃なのかもね」

 ──張り合い。今の私に、そんなものを求める生気は残っているのだろうか。忘れかけていたものを思い出して、胸騒ぎがした。

 この1年間、私はもう死んでしまったのではないかと思いながら生きていたから。惰性と延長と鈍麻だけの日々に、憂鬱以外の感情はない。だからこうして心が動いたいま、その鋭さをなによりも鮮烈に感じる。私は今、感じているんだ。休むことに疲れてしまった自分を。なにかを求めて、彷徨うということを。

「君に、お願いがあるんだけど」
「お願い、ですか?」
「1日だけ、うちの店を手伝ってくれないかな。今度の金曜、息子の授業参観でね。途中で帰っても、大丈夫だから」

 海風が頬を撫で、髪を揺らす。穏やかな潮騒を聞きながら、つんと鼻奥があつくなる。そうか、私はずっと。

「それじゃあ、金曜の朝に。仕事は簡単だから身構えなくて大丈夫だよ。よろしくお願いします」

 髪を結って、外に出る。すこし震えてしまう手を握りしめて、海辺へ歩いた。

 そうだ。私はいつだって、誰かに必要とされたかったのだ。

「いらっしゃいませ。うみべのソフトクリーム屋です」

Fin.

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