クリヰムソオダの記憶

画像1

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【クリヰムソオダの記憶 / 001】
確か、あれは母の体調が悪かった夏の夕暮れ。観光バスの運転手をしていた父が、私と弟を自家用車に乗せて連れ出した。ミッションレバーに見慣れない装飾のついたカバー。幼心に、私は違和感を感じていた。思えばその頃すでに私はヲンナだったのかもしれない。
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【クリヰムソオダの記憶 / 002】
ヲンナと云うものは、何故、“今までと違う”ことに敏感なのだろう。そこには根拠や確証は存在しない。
ただ漠然と、その違和感を知る。
面白くもない高速道路の風景がしゅんしゅんと通り過ぎ、退屈で欠伸を連発した頃、あのヲンナのいる喫茶店に着いた。
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【クリヰムソオダの記憶 / 003】
父は上機嫌で、まだ灯っていない看板の横の扉を慣れた手つきで開けると、カランコロンとドアベルの派手な音が店内に響いた。
「いらっしゃい」
名前の記された様々な形の洋酒の瓶がヲンナの後ろの棚に並んでいて、ただの喫茶店ではないことに気づいた。
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【クリヰムソオダの記憶 / 004】
カウンターの向こう側で女は、母とは似ても似つかぬ華美な服を着て、紅の色を差し、口角を吊り上げた。
指先の真っ赤なマニキュアがヲンナとはこういうものなのよ、と象徴的に訴えかけてきた。
弟だけが、父の腕の中で無邪気にきゃっきゃっと笑っている。
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【クリヰムソオダの記憶 / 005】
「こっちが娘の理恵、こいつは大輔」
「理恵ちゃん、初めまして。あたしはお父さんの友達の明美と言います。いつも“お父さん”にはお世話になっています」
口角を吊り上げたまま、明美さんは軽く会釈をした。明美さんの笑い顔はひたすらに怖かった。
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【クリヰムソオダの記憶 / 006】
「おばさん、お父さんと友達?」
父の横顔を盗み見る。家の中で母と私にみせるそれとは違っていた。違和感、違和感、違和感。何かが変だ。
「ふふ、理恵ちゃんにはわかんないわね」
明美さんは私から視線を外し、背を向け棚の中からグラスを取った。
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【クリヰムソオダの記憶 / 007】
母の痩せた細い腰つきとは違った、脂肪が乗った豊満なヲンナの身体は醜い。乾いた布巾を取り、胴の部分に切子が入ったソーダグラスを丁寧に磨きあげると明美さんはにこりともせずに、優しげな声色で「クリームソーダ作ってあげるね」と云った。
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【クリヰムソオダの記憶 / 008】
透明な氷が、から ん、とグラスの縁に当たって大きく鳴る。とぽとぽとメロンシロップをグラス1/4ほどの量を注ぎ込み、ソーダ水で満たす。
窓からの光がヲンナの指輪に反射して普段では視ることの出来るない部分を露わにし、私は暫く見蕩れていた。
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【クリヰムソオダの記憶 / 009】
マドラーをくるくる廻すと滞っていた下層の瑠璃は四散し、月並みな濃度を保って落ち着いた。ディッシャーで掻き集めたアイスを静かに乗せ、長い茎の真っ赫な桜桃を一つ。
しゅわり弾け飛ぶあぶくが生を謳歌する生き物に見えて、桜桃が沈みゆく予感がした。
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【クリヰムソオダの記憶 / 010】
「ねぇ、桜桃の茎、口の中で結んでみなさいな、蝶々結び出来る?」
唇が動き、濡れた結び目が半開きの唇の間から覗いた。
あの赫い桜桃には騙されてはならぬ。
解ってはいても、甘い甘い瑠璃色のソーダ水に溺れた。
私はまだそれ程までに幼かった。
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【クリヰムソオダの記憶 / 011】
母の姿が欠けた家族とヲンナ以外に人気のない店内でインベーダーの角をこそげ落ちる電子音が静かに響いていた。洋酒の瓶がその細やかな音を拾って共鳴しているかのように。
短い時間だったはずなのに、長い時間が身体の内を通り過ぎた気がしていた。
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【クリヰムソオダの記憶 / 012】
外に出ると看板が薄らと灯り、くっきりと昼と夜との輪郭を明確にしていく。
夜の端が瞼の裏で飛んでは消え、アスファルトの継ぎ目を拾っては揺れて、微睡みに誘う。
高速道路の妖しく点る橙色が踊っては消え、踊っては消え、いつもまにか夢を視ていた。
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【クリヰムソオダの記憶 / 013】

ヲトコか――
ヲンナか――
それ以外、か。

母はあのぶよぶよとした醜いヲンナに負けたのだ。
境目であのヲンナは笑っていて、私を長く魅了してやまないのだった。
口の中には桜桃の茎が残ったまま、今もまだもごもごと舌を動かしてゐる。

               

                    《了》


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