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第13話 毛、毛、毛、ケニバリズム


甘いハミングが聴こえる。
窓辺の陽光を浴びて、伏し目がちの横顔に長い睫毛の影が揺れている。
小鳥遊《たかなし》が手元の分厚い本のページをめくりながら歌っていた。
新曲の打ち合わせに小鳥遊の部屋に来たのだが、いつ訪れてもこの部屋は理路整然としている。高さ順に並べられた本棚の中身、色調が統一されたリネンにカーテン、デスクトップ型パソコン周りには束ねられ裏に隠されたコード類、塵埃《じんあい》一つ落ちていない洋室。
ラグの上で肘をついて寝転びながら、修行僧を目で追う。
犬死にの修行僧はモテそうだ、欲目抜きに男の俺から見ても。ボーカルも似合うかも知れない。ギター片手にソロやっても、きっと巧妙にこなすだろう。そんな小鳥遊の深く陰影を落とす顔に思わず魅入ってしまった。
その熱視線に気付いたのか、ページを繰る手をとめ読みかけの本をテーブルに置いてこちらに視線を投げた。
「なぁ健ちゃん、そろそろ犬死にのラブソング作らん?」

『蟷螂《カマキリ》は愛を食べるか? ―自然界にみるカニバリズム―』

本の表紙を盗み見ると、何度読んでも俺の頭ではさっぱり理解が出来ないタイトルがついていた。
小鳥遊がスタンドにかけてあったギブソンを手に取ると小さな旋律を奏で始めた。
「バラードか……うん、ラブソングなぁ」
「どう、これ? ピンとこないなら詞先《しせん》でもいいよ」
「んー、ラブソングか」
「人肉って、どんな味するんかな」
さらっと言ったのを俺は聞き逃さなかった。
「あ?」
「だから、人肉って美味しいのか、と」
「は???」
「食べて一部になるなら悪くないな」
修行僧《たかなし》がフォークとナイフを手に人肉をむしゃむしゃ頬張る姿を想像してえずいた。
「お、おええええええぇぇぇ」
「食べたい奴、僕はいてる」
「女か?」
「肉を食べたくなるほどの……」

「……それは愛なんか?」

小鳥遊は俺の問いかけには答えず、指を弾き弦に優しく触れた。
「んー、判った。ラブソングな。考えとくわ」




                 +++

あの夜、薄汚れて小刻みに震える仔猫をリックサックから取り出し、2階にある六畳間自室の蛍光灯の明かりの下でまじまじと見ると、悲哀にも似た感情が湧き上がった。
乾いたタオルで雨に濡れた自分の身体を拭き、着替えて改めてか細い声をあげる仔猫を見つめた。
「おまえ、可愛くねぇ顔してんなぁ」
ブヨブヨとした腫れぼったい目からはドロドロとした汁が出て乾いたのが目頭や目尻にこびり付いて、鼻の周りまでが黒ずんでる。
息をするたびにスピースピーと微かに鼻が鳴り、艶のない毛が濡れそぼって骨の上に乗った皮膚にべっとりと張り付いて、尻尾は火の消えた導火線みたく途中で曲がった挙げ句にブチ切れている。
気の毒としか言い様がない。

階下の店舗でキャベツを刻み明日の仕込みをするオカンに声をかける。
「なー」
「要らんタオルない?」
「えー、雑巾?」
「いや、そーゆうんやなくて」
リズミカルな包丁の音がやみ、間をおいてドスドスと階段を登る鈍い音が近づいてきた。
「はい、こんなんでええか」
「あんた、なんなん? それ!」
「何って、猫やけど」
「それはわかってるわ」
「オカン、猫飼ってええ?」
「何言うてんの。あかんに決まってるやろ。商売の邪魔や」
「こんなブサイクな猫、ほっといたら野垂れ死にやで」
仔猫をオカンの鼻先に突き出した。
「オカンかて、オトンに拾われたんやろが」
「アホか、誰がブサイクやねん」
「一生のお願いっ」
突き出した掌の中でプルプルと震えている。
いいぞ、もっとアピールしろ、猫。
オカンが溜息をつく。
「絶対、店舗には入らんようにするって約束出来るんか?」
「する、する、なー、猫」
「世話はお母さん一切せーへんからな」
「カブトムシみたいにお母さん世話するの嫌やで!」
「はいはい、わかっとるって」
「あと、ちゃんと父さんに説明しなさいよ」
「へーい」

破棄する烏賊の耳に似てたから、この猫をイカと呼ぼうと決めた。それに俺はブタ玉よりイカ玉が好きだった。
イカがこの家に来てから、ふわふわとした毛が、舞う、舞う。
ここにも、そこにも、あそこにも。
それを吸い込み、知らないうちにイカの毛は俺の生活の一部になった。
二階の卓袱台で食う飯に、イカの毛が例え入っていても、いつの間にか誰も気にしなくなっていった。

「ラブソングなぁ…」

艶やかな毛並みで欠伸するイカの顎先を撫でながら、天井を見上げ考えていた。
今の俺に歌えるのは、せいぜい、毛、毛、毛、ケニバリズム、それくらいなもんやろう。
ムカつく女の顔が一瞬浮かんだ気もしたが、気のせいって事にして、もう寝る。


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