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掌編小説『いずれ夏らしくなる夏に』


 知人の友人、名も知らない彼または彼女は、〝会いたい人に会えないのが寂しいのではない。会いたい人に会えなくてもやっていけてしまうことが寂しい〟と話した。それに誰一人上手い相槌を打てなかったと知人は話した。
 その話に私は一言、私たちは強いな、とだけ言って、すぐにまた違う話を始めたのだった。

 緊急事態宣言が明けたのは知人と数年ぶりの通話を終えて一ヶ月と二十四日後。今夏、我々は分断された。
 知人はいつからか、数年前かそれ以上前からか、たしか東京のマンションの一室を借りて本を書いている。愛がどうだとか恋がどうだとかいうくだらない恋愛小説である。
 私はそれでもふとした夜にその知人へ電話をかける。滔々と愛の本質を語る知人に私は何故か架電する。
 結婚願望の強い人で、長電話は必ずお決まりの結婚論に着地するため私は大抵話の半分ほどしか聞いていないのだが、私は勿体ないことに今年の夏をその知人との通話にばかり割いて終わった。

 晩夏、彼は死んだ。

 酒が美味い。
 ここ最近呑み方を覚えて晩酌がほんの少し楽しくなった。
 私のひと夏を奪っていった彼が死んで、私は部屋で一人呑んでいた。
 窓から入る風はすっかり秋づいていたようで、徐にクローゼットから茶色いブランケットを取り出す。
 酒が美味い。最近やっと酒が美味い。私は記憶をなくすまで酒を呑んだことがない。酒では記憶をなくせない。
 懐かしいほど深く黒い夜に、私は話す相手がいない。

 我々は寂しさへの免疫が剥がれ落ちた時代にいる。
 誰もが孤独に怯える世になった。スマホを握りしめなければ越えられない夜が増えた。
 簡単に繋がれてしまう時代はやがて繋がっていないとやってられない時代になって、我々は情けなく愛に渇くようになった。
 電話の初め、彼は決まってそういった旨の話を私にした。
「愛が世界を救う、って本当かしら」
「愛が世界を救うかは知らんが、少なくとも愛は俺を救う」
 会話らしい会話はほとんどそんなもので、彼は通話時間の大半を一人語りで埋めるようだった。
 彼の話はとても長く、その分だけ夜が延長されていく気がしていた。

 ある夜、出会い系アプリで結婚相手を探す時代になった、と彼は言った。
 一昔前までは出会い系をやっているなど人には言えず、危うさ、卑しさ、後ろめたさ。牝牡の猫が発情する路地裏のような空気感がその言葉にはあった。
 それが今や、つまらないほど健全な心と常識を持った至ってまともな人間でさえ出会い系アプリに登録している、らしい。彼いわく。
 彼は続けてこうも言った。
 出会い系アプリで結婚相手を探す時代なのだから、いずれナンパで結婚相手を探し始めてもいいんじゃないか。そういう時代になったらきっちり従っていくんだろうな、と。
「逆に、会ったこともないのに結婚したいくらい気の合うAさんを見つける時代とか」
「俺は会ったこともない奴は愛せないな。そういう奴がいてもいいけど」
「愛は必要不可欠なのね」
 私の言葉に彼は、たしかこんな話をぶつけてきた。SEXは乗算であって加算ではない、と。続けてこうも。好きな人としかできないなんて言う人間が一定数いる。同時に、やれば好きになるなんてことを言い出す人もいる。両者共、愛がたったの「1」でもあれば、彼等は絶対愛し合える。
 でも「0」だったら。掛けても増えないのだとしたら。
 だから無くなりきった愛にSEXは効かない。ただ、やりたい奴等はお互い会う前からその気で会う。それは「会いたい」とは少し違う気がする。
 これも全部、繋がりすぎた時代に産まれた繋がりたがりすぎる我々の本性かもしれない、と思うと、それがまた寂しくさせる。

 我々は結局時代には勝てない。どうせ勝てないのだから早々に諦めて前を向かなくてはならない。
 死にたい夜はさっさと寝て朝を迎えに行かなくてはならない。寂しさを飼い慣らさなくてはならない。救いの方法を大から小まで、愛からコンビニの期間限定アイスまで、バリエーション豊富に持っておかなくてはならない。
 それなりに生きて死んで往きたいのならば、特段手の込んだ、かつ華々しくて大仰で叶いそうもない死に際を理想として据え置かなくてはならない。その死に際を絶対として、それ以外で死んでたまるかと思う他、こんな時代を生き抜く術はない。それしかない。なのに。なのに我々は、幾ら死に際を決めていたっていざ絶望すればそうはなれない。

「俺からの助言だ。死に際を決めたら絶望しきってしまうより前に、大切な誰かへ話しておけ」

 私は何も言わず、彼もそれ以降何も言わず、深く黒い夜は世界一静かに終わっていった。
 彼が首を吊ったのは、その日の夜の明け方だった。

 我々は寂しさへの免疫が剥がれ落ちた時代にいる。電話の初め、彼は決まってそういった旨の話を私にした。
 私はその話が嫌いで、そんな話をしとしとと語る彼のことも私はきっと嫌いだった。ひとつひとつ着実に言葉で刺し殺してくる彼をきっと嫌いでいたかった。

 私の夏の思い出は、最期まで知人の域を出なかった会ったこともない彼との通話の記憶だけだった。
 思い出なんてくだらない。この上なくくだらない。そして、くだらないと思いたいほど恐ろしいだけだということも今の私は知っていた。
 思い出は残酷すぎる。ふと思い出したとして、その時間にはもう往けない。全く同じ体験は二度と出来ない。更には形にも残らない。純度百パーセントの思い出は、思い出と名がついた時点で見えず触れられない「概念」に成り果てる。
 最近買った彼の本に「思い出の終着点はいつか懐かしさになることを考えて形作らないといけない」と書いてあった。「助言の半分は後悔で出来ている」とも書いてあった。
 私は考えた。私は今懐かしんでいるんだな、と。そして、助言のもう半分は何で出来ているんだろう、と。
 懐かしさは虚しい。けれども懐かしさは心地良くもあるらしい。二度と手に届かない情景を恋う時間は間違いなく虚しいがしかし、その時間の中だけはどうしようもなく愛しい香りに包まれる。
 年々薄れ、心地良い時間は減っていく。記憶は変化という誤作動も起こす。
 それでも、私たちは心地良さと虚しさが丁度いいバランスを保つように思い出をつくらなければならない。そう彼の本も言っている。

 季節だって残酷だ。
 桜が散って蝉時雨を抜けたら葉が赤らんでやがて痛い寒さが肌を刺す。
 それだけでいいじゃない。それだけでいいのに、私たちは季節に人を見る。
 会いたかった人を見る。
 会い損ねた人を見る。
 愛し損ねた人を見て、もう会えないことを思い出す。

 夏らしいことは何一つない夏だった。
 夏らしいことなど何一つとしてない夏だったけれど、来年の夏に思い出す「何か」が、きっとこれから生きる私の「夏らしいことリスト」に以後載り続ける。
 季節は巡り続ける。
 次の梅雨明けが少し恐くも待ち遠しい。
 私はこれから嫌でも巡る夏に、きっと彼を懐かしむ。


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