見出し画像

静かなコクリコの森

おそらく此処に
何か描かれてあっただろう森の行き止まり
コクリコの花が
ことりのお喋りみたいに咲いている
なまえのしらない虫たちが
じろじろとにげてゆく

この森はかつて
人が住んでいた気配がする
ところどころに
木の椅子や銀のコップや絵の具なんかが落ちている
絵を描く人間の静かに燃える抜け殻
まだ息をしているかのような
か細く揺らめく炎の踊りが
森一帯を囲んでいた

なんの絵かしら
両手をいっぱいひろげて
埃をはらう手がすこし粘つく
ようやく見えてきたのは
月の匂いのような髪を靡かせ
伏し目がちな瞳の色は澄んだ灰色
コクリコの花を胸にたくさん抱え持った
清らかな女性の絵だった

この絵はふしぎなちからを持っている
そう確信したが
ふしぎな瞳をしている
微笑んでいるのか哀しんでいるのか
そのどちらもか

わたしはなぜこの森に誘われたのだろう
夢で見たような気がしたのだった
一度でもこの絵を見つけて欲しかったのと
言っている気がした

その時
森が急に騒ぎはじめた
銀色の雨がしだいに降り出し
雷鳴が遠くで鳴り始める
わたしは急いでこの森から出ようと走った
スカーレット色のワンピースが
雨に濡れて肌寒い
森を抜け出した先に草原がある
草原は雨風で激しいタンゴのように踊っている
怒っているようにも思えた
急いで家に帰らなくちゃ

家に着くと
暖炉の近くでロッキングチェアに腰掛け
アップルパイが焼けるのを待っている
母の姿があった
おかえりエリィ
あらまぁそんなにびしょ濡れで
風邪をひいてしまうよと
ロッキングチェアからゆっくり起き上がり
わたしにあたたかなガーゼタオルを
あたまからかぶせる

そのやわらかな優しさとぬくもりに
わたしはうっすらと母に微笑む
アップルパイの甘い匂いが立ちこめた
ちいさな部屋のなかで
もうすぐアップルパイが焼けるからね
お茶にしましょうと母は言った

たくさんの茶葉の入った瓶が並んでいる
キッチンで母はカチャリカチャと
食器を出して準備をし始める

わたしも焼けたアップルパイを切って
金色のフォークとアップルパイをお皿にのせた
いただきますとちいさく呟いて
母と一緒にアップルパイを食べた
紅茶から立ちのぼる半透明の湯気に安堵して
甘い蜜の味のするアップルパイを食べて
しあわせになった

夜になれば雨はあがっていた
窓を開け放ち夜空を見あげていると
月が雲間を縫って星々が話しかけてくる
時々見え隠れする月が恥ずかしげに
月明かりの長いドレスを引きずっていた

チェロのような低い風が空中を吹いて
わたしの肌を撫でてくる
少し肌寒くなったわたしは
そっと窓を閉めて
ふかふかのベッドに入った
眠りはあっという間に訪れ
燻る煙のような底なしへ
ゆっくりと下ってゆく

夢を見た
あの絵の女性が遠くのほうで手を振っている
華奢なからだで白っぽいワンピースがはためき
屈託のない笑顔でわたしに笑いかけている
草原の真ん中に立ち時々わたしのなまえを
呼んでいるその声は
かろやかで清々しかった

夢から覚めると
いつもの部屋に
夜明けの空がひろがっていた
この肌に馴染んでいる風の匂いがしてほっとした
お気に入りの縫いぐるみもいつもみたいに
にこにことしている
あの森にはもう二度と行かないかもしれない
と直感的に思ったわたしは
まだ薄青い夜明けの空を眺めながら
かろやかに清々しく微笑むのだった


end





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?