静寂の海
宇宙は真空のため無音であり、趣味の古い歌人などはよくそれを”静寂の海”などと喩えたものだった。何十年も前の風俗である。
今どきのOSには疑似立体音響システムが積まれているから、全くの無音ということは──少なくともパイロットにとっては──無くなった。機外の衝撃や熱、あるいはそれ以外の重力波を検知すると、システムがそれに応じた音を作って教えてくれるのだ。宇宙はずいぶん賑やかになって久しい。
しかし、システムの不具合か、電磁波の干渉か、はたまた説明し得ぬ何者かの仕業か──予期せぬ”静寂”が忍び寄ってくることはあるようだ。これは阿仁の艦で代々猟師を務めているパイロット、岩田さんの話。
猟師に類するFM(注1)パイロットにも種類があるが、岩田さんはもっぱら鹿撃ちを専門にする熟練の撃ち手だった。鹿は熊や鯨よりもずっと警戒心が強くて探すのが難しく、また外殻が脆いので、弾の当たりどころが悪いと破片が肉に入ってしまい売り物にならない。だから鹿猟は忍耐が八割だという。
「一番長ぐ待った時は三十年も前になるな。一週間も動かねンでじっとして、マンマ(糧食のこと)ねぐなるど思って、弱ったなあ、あン時は」
異変に遭ったというおよそ二十年前も、もう四日ほど同じ暗礁宙域に滞在していたという岩田さん。宇宙鹿はエサになる有機漂流物の流れを追って数箇所の縄張りを巡回する習性があるため、ポイントを定めたあとはじっと待つのが定石だった。FMを狙撃姿勢で固定したまま、トリガーだけマニュアル制御にしておくのだ。無論その間センサーから目を離すことはない。宇宙空間、ましてや大小のデブリや小惑星がそこら中に漂う宙域で人間の目はほとんど役に立たないからだ。
太陽風、重力波などの変化に注意を払いながら、機体が伝える疑似音響で周囲の様子を把握する。日に一度の食事時間と数時間の仮眠を除いて、そういう状態が何日も続く。四日目にもなるとだんだん疲れてくる。
「もう一日待って駄目だば、帰ると思ったンだ。したっけ、おがしぐなった」
その時は、居眠りしたか何かで操作を誤ってセンサーを止めたと思ったのだという。しかしどうも様子が違う。太陽風モニターは先程と変わらず機体が風下を維持していることを意味していたし、重力波モニターもずっと機能している風だった。ただ、音だけが全く入っていない状態になっていた。
流石の岩田さんもこれには肝を冷やした。疑似音無しで暗礁宙域に居座るのは危険だ。万が一デブリにぶつかって装甲に穴が空いたまま気付かないと、大変に命取りになる。去年の暮れに同じようなトラブルが原因で帰らぬ人となった上小阿仁の同業者のことを思い出して、慌てて再調整に取り掛かろうとした時だった。
「女性の声ですか?」
「んだ。あんたと同じくらいでねえべがなア。二ン十そこらの若い女の声だ」
声はヘルメットのスピーカーから直接聴こえたという。疑似音は依然入らないままだったから心底不気味であったそうだ。しかし、無視をする訳にもいかなかった。近くを漂流する船や、アンカーの外れたステーションからの救難コールかもしれない──救難はオープン回線なので、近い機体なら設定によらず受信できるようになっている──からだ。岩田さんはシステムに再起動をかける前に、不明瞭であった声の増幅を、そして同時にオープン回線での返答を試みた。
「こちら阿仁猟会、こちら阿仁猟会。再度発信願います。どうぞ」
そうしてからニ分ほど返事を待ったが、スピーカーは沈黙したままだった。疲労のせいで機械のノイズを女の声と聴き間違ったのだろうか。無理矢理そう考えて通信を諦めた瞬間、
──ケンちゃん。
────やっとみつけたぁ。
「それ聞いだ途端おっかねぐなってよ」
「逃げ出した?」
「踏んだ踏んだ(注2)。鹿どこでねェもの。あンた恐ろしい事、猟師なってがら初めでだったなァ」
その後も岩田さんは何度か同じ宙域で単身鹿を撃ちに行っているそうだが、女の声を聞いたのはそれきりだという。
当時の新聞を見ても、周辺で事故や遭難の記事は見当たらなかった。声の正体はとうとう分からずじまいである。
「第一、俺ぁケンちゃんでねくて耕作だがらな。もしオバケだったども、ずいぶんな人違いだべ」そう岩田さんは笑って締めたが──幽霊も人間違いをするものなのだろうか?
注1──フラクタル・モジュール(人型重機)。政府主導で展開された事業向け工事用モデルとは別に、狩猟用の改造品が東北地方の船団では盛んに出回っている。
注2──機体のブースターを全開にすること。旧世紀の乗用機械のほとんどがペダル式のスロットル制御装置を採用していた歴史があり、その名残で地方の高齢者は速度を上げることを踏むと形容することが多い。
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