【短編小説】 旅の終わりに
二日前からだろうか。すっかり骨張ってしまった腹の内側から食欲が湧き上がって来るのを感じる。体もやけに軽い。私ももう長くないのだと思う。
純白の薄いカーテン越しに、ピンクと水色が透けて見える。86回目の春か。
私に食欲が戻ったのを聞くと、娘は「お父さんが好きな抹茶のやつ買ってくるよ」と嬉しそうに孫を連れて病室を出て行った。
だが、私は知っている。本当に終わりが近い人間には、最後の最後で残った力を絞り出すように元気な瞬間があると。落ちる前の桜が「もう後は無いのだから」と懸命に咲くように。きっと今が私にとってそれだ。
生きているか死んでいるか分からない曖昧な意識を抜け、鮮明な頭で思い出すことは20代の頃のヨーロッパ中を巡る旅のことだった。あの頃、僕たちは自由だった。好奇心に任せて旅に出た。
ドブロブニクの夕焼け色に染まる旧市街
ブダペストの夜に浮かぶ黄金
レイキャビクの朧げなオーロラ
グラナダの圧倒的なアラベスク
ツェルマットの畏怖すらも感じさせる霊山
思い出はあの頃と変わらず鮮明なままだ。思い出に皺などない。終わりは旅の一部である。誰かが言った。そうは言っても最後まで慣れることは無かった。旅が終わり日常に戻る瞬間はいつだって痛みを伴う。人生を旅だとするなら、今が丁度その瞬間のはずだ。不思議と痛みはない。この先に日常もないだろう。
とりあえず、思い出をこの体にたっぷりと詰め込んで出発の準備をしようか。
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