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「初秋、晩秋の記憶」


店を出ると彼女は「寒い」と呟き、ポケットから手袋を取り出してその細く白い指を入れた。数日前から急に冷え込み、街を行く人の服装もいつの間にか厚手になっている。いつもと同じような心地よい無言の中、駅に向かっていると前を向いたまま彼女は言った。

「ねえ、私のこと好きになったのっていつ?」

突然の質問に僕は面食らった。

「どうして急に?さっきのワインで酔ってる?」

「少しね。けど、結婚して今日で十年じゃない。ここで聞いておかないと知らないまま死んでしまう気がする。もし死ぬ直前に気になって、心に引っかかったまま死ぬのは嫌なの。」

少し笑いながら話す彼女に、ある種の真剣さを感じて僕は一層動揺した。思い出せないということでは無い。むしろ、今でも鮮明すぎるほどに覚えている。嫌なことばかりの青春の記憶。その中で場違いなほど美しい記憶。毎年その時期になると思い出し、色褪せないようにすぐにしまう。例え相手が他ならぬ彼女であっても、その記憶を言葉にしてしまうと急に陳腐な物になってしまいそうで怖かった。
だけど、最初で最後のいい機会なのかもしれない。

「高二の十月だよ。」

「高二?それって私たちが知り合う前だよね。」

彼女は驚いて僕の顔を見た。予想のどれとも違ったのだろう。

「うん。A棟の三階で君を初めて見たんだ。少し肌寒くなった初秋の放課後。」

一目惚れという言葉はあえて使わなかった。彼女は黙って次の言葉を待つ。

「ほら、進路相談室があったろ。三階の奥の方に。そこに僕は担任に呼び出されていた。朝に白紙の進路調査書を出したせいだ。先生は怒るでもなく僕を心配してくれていた。でもどうしても当時の漠然とした不安や怒りを口にする気にはなんなくて、ずっと黙ったままで、その日は帰って良いって言われた。」

胸に秘めていた言葉たちは、まるで持ち主のもとに帰るようにして彼女の耳に届いていく。

「僕が部屋を出ると、君は廊下の手洗い場で手を洗って、その手をハンカチで拭きながら目の前を通り過ぎて行った。真っ直ぐ前を見る君の目、彫刻みたいな君の指、柔らかそうなハンカチが僕に必要な全てに思えた。性格なんて知るはずもなかったけど、君の全てが分かった気がした。吹奏楽部の練習の音。金木犀の甘い香り。冷たい風。窓の外の夕暮れのオレンジ。全部がそのまま焼きついて忘れられそうにないんだ。」

自分の声じゃないように声は響いた。周りに人がいることも、ここが外であることも忘れかけていた。話し終えた時には喉が乾いてしかたがなかった。自分の顔を見せるのも、彼女の顔を見るのも恥ずかしくて正面を向き続けていた。

「素敵な話。やっぱり聞いといて良かった。」

穏やかな彼女の声でやっと心が落ち着いた。深い青い海底から海面まで上がったようだった。喜び、安堵はゆっくりと体を回り、冷めた体を温めた。気づけばもう駅の改札にまで来ていた。

「やっぱり家まで歩かない?私も知って欲しい大切な思い出があるの。」

そう言うと彼女は心なしか頬を赤くし、僕の手を取って踊るように引っ張った。駅前の広場は、早くも白や黄色、ピンクにライトアップされ、秋の終わりと冬の始まりを感じさせる。忘れられない瞬間がまた増えたような気がした。

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