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-books-水中の哲学者たち

そういうものだよ、考えすぎるとつらくなるよ、わからなくなるよ。
この思考停止を誘う言葉は、思いやりの形をとったアドバイスの容姿しているからおぞましい。
いつくしみ深い聖母の見た目をして、抱きしめられた途端に私たちの息の根を止めてしまう。
気がついたら、あっという間に無抵抗で受け身の人間につくりかえられてしまう。

この後に『哲学はなにも教えない』という文章もある。


「哲学」というものに初めて触れた。
言葉は知っていた、そういう名の学問があるということも。


哲学は誰しもが持っているものらしい。


「この要素を兼ね備えているので哲学です」といった、明確な決まりなんてない。
ただ、人によって持っているものが違う、そんな哲学の世界を知ることができる1冊です。



考えることは好きです。考えないこと、思考停止は嫌いです。
いつも何か考えてたい、そんな私に、「哲学」ってぴったりでは?と思わせてくれる一面も。

著者の永井さんが行う、哲学対話ーこの本に出てくる対象はほとんど小学生です。
は「考える」で留まらない。意見交換をしているシーンが多く回想されます。


一つのテーマに対して、皆で深く考える。

この授業では一見難しそうな「哲学」に触れる、と同時に、発言の自由を教えてくれているような気がする。


幼少期、人前で話すのがとびきり苦手だった私、こんな自由な授業があれば、描かれている子供たちのように、自分の哲学をさらけ出せていただろうか。


「哲学対話」
一見恐ろしい。大人になるにつれて、自分の「哲学」をさらす場のTPOを考えさせられる。

職場での発言、友人への相談やアドバイス、自分がどんな役割で何を求められているのか…


「演じて」発する言葉の数の方が多いと感じる時には、ストレスが溜まっている。

永井さんの先生が哲学対話について説明するシーンで、「自分の言葉で話すこと」をルールとして定められている。

「自分の言葉で話すこと」、自分が言葉を発し、それを受信する受信者が多ければ多いほど、「自分の言葉」はどんどん薄くなっていく。


「自分の言葉」100パーセントで自分の内側をさらせている人たちは、どのくらいいるのだろうか。
大人になるほどに、さらす場のTPOに左右され、「この場では自分は何者なのか」を意識し、その何者かを演じて役を通した言葉を発しているような…そんな気がしてならない。


そんな大人たちの中で、哲学対話の場は、
考え、人の話を聞き、柔軟に自分の考えが変わり、時には芯を持ち…
とても貴重な場だと思う。嘘偽りない、柔軟な自分を取り戻すきっかけとして、私も参加してみたいとも思う。




永井さんは、哲学の生まれるそれぞれのテーマの元を「問い」と書いています。

「友達の人生を歩めないのはなぜ」
「ひとは何のために生きているのか」
「なぜ約束を守らないといけないのか」
「幸福とはなにか」

哲学対話で用いられていたテーマを抜粋すると、それこそ「そういうものだから」と片づけたくなるような、考えると気が重くなっていきそうなモノもあるが、哲学はもっと身近なモノからも生まれるらしい。

逆に、「そういうものだから」を取っ払ってしまえば、楽しそうだと思うのは、私だけだろうか。

それに、哲学は意外とわたしを助けてもくれる。
「なんで」と問うことは、その問題から、わたしを引き剝がす試みだ。
ひとは苦しんでいるとき、何に悩んでいるのかわかっていないことが多い。
漠然とした、説明できないもやもやに、身体はむしばまれていく。苦しみはぴったりとあなたに寄り添っているから、その姿を見ることはできない。
だが、「なんで」と問うことによって、苦しみを、とりあえず目の前に座らせることはできる。そうすれば、苦しみがどんな顔かたちをしているのかがわかる。確認できる。
まじまじと観察して、お茶でも出してあげよう。早く帰ってと説得してもいいし、そのまま一緒に暮らしてみても案外面白いかもしれない。少なくとも、得体のしれない不安感は、少し消えるはずだ。
なんで、と言うことによって、わたしたちはいつでも哲学を始めることができる。

この文章を永井さんは、鞄の中でコンビニで買った茶碗蒸しが漏れていて
荷物すべてが卵まみれになった際の「なんで」といったエピソードと共に書かれている。

卵まみれの荷物を哲学は解決してくれないけど、心の持ちようは何だかマシになりそうな気がする。





タイトルにある、水中。

この本の紹介にも、「さあ、あなたも哲学の海へ!」とある。

海。果てしないもの。考える、という行為も果てしないもの。


考えるという行為は、自分の思いの核心の奥底まで、「なんで」「なんで」と繰り返す。
こたえの出ないときも、こたえが正解なのか分からないときもある。
ひどく不安になる。時には自己否定すらある。

分かっていたものが分からなくなったとき、とても心細くなる。
弱くなる、その海に放り出されることに恐怖を感じる。

こんな時に手を差し伸べるかのように、ギラギラと光る甘い道が見える時がある。
「これが正解だよ」と語りかけてくる。

世は、それをビジネスと取り扱うこともある。
そこに甘えると、自己がないことに慣れてしまい、甘い何かに依存して生きていってしまいそう。


なんて、つまらない。

わたしは祈る。どうか、考えるということが。まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。
それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる。


自分自身にしかない自己を、自由で広い海に漂わすことができるのに、
見た目だけが良く見えて、中身の見えない島へ漂着させたがる。

漂着への近道を探すこと、漂着への道を知っていることが偉い、といった価値観が蔓延っている気がする。

上記の抜粋は永井さんの叫びだと思う。

哲学に救われる者もいれば、哲学を利用しようとする者もいる。
本質に気がつかず、上辺だけをスルスルと滑ることが面白いのか。


よく本屋さんへ行くが、
ビジネス書のコーナーによくある、自己啓発本の一角、私はあの雰囲気が苦手。
「○〇するとうまくいく」「成功者はみんな〇〇している」
そんなメッセージに溢れたあの空間が苦手でならない。

成功者とは? そんな定義からしたくなる。

先人に学ぶことは多いと思う。
でも、このコーナーが発する雰囲気は、
先人の汗水を甘いなにかでコーティングして、人が吸い寄せられやすい言葉を巧みに使い、せっかくの自由の海に漂う者へ、見栄えのいい島からロープを放っているように思えてならない。

または、自らの成功体験を他者へ押しつけ、自由な海へ、この道をたどらないとこうなれないよ、とメッセージを発しているように思えてならない。

あまりにも私は頑固なんだろうか。



この本の2章の最後に「存在のゆるし」とタイトルのついた話がある。

本当は、傘は必要なかった。わたしは濡れてもよかった。「雨の中で傘をさしているひと」になるために、
この町で居場所を得るために、わたしは傘を買ったのだ。

10年以上前に見た番組で、オードリーの若林正恭が「楽屋でペットボトルのラベルを読み込んでいる」という話をしていた。
ただ座っているのはつらい、だけどドリンクのラベルを見ていれば「ラベルを見ているヤツになれる」と。

大雨の中、傘をさしているひとにならなくてもいいことを、自分にゆるそう。
目の前のペットボトルを読み込まなくてもいいように。エレベーターの中で、ゆっくりと点滅する階数を見上げなくてもいいように。
役割を得ることだけが価値にならないように。
これはわたしのささやかな社会運動であり、抵抗運動である。


何者かでいないといけない、自分の役割を遂行し続けないといけない。

他者の目を気にするあまり、何者かでいることにしがみついてしまうときがある。居場所を得るために。

この行き過ぎた客観視が、ときに自己を弱くし、海に漂流していることが悪いことのように思え、甘い島にたどり着いては、そこで得た価値観や物差しでまた、他人を測ってしまう。

もうやめよう、と、みんなが、存在をゆるせたら、と。

あまりにも、「右向け右!」「前へならえ!」と、同じ方向を向くのが正しい、空気が読めている、といった風潮が生み出す、不必要な価値観から、「自分自身が本当に大切にしたいもの」を気づかせてくれるのも哲学なのかもしれない。


きっと、守らないといけないのは、この風潮を気にしなくなったときに本当に守りたいものだし、守りたいものを自由に守らせてくれない、自己を見失うきっかけになりそうな甘い罠にだけ哲学が使われないことを私も祈る。


photo by yoru_matsu_




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