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essay|音楽


中学生の頃、ベースを買った。

楽器を買うのは初めて。
それまで街で楽器屋さんが目に付いたこともなく、どこに売っているのかもわからなかった。

高校の3年間は軽音部に費やした。

人生で音楽に触れる密度は、この先も変わらずに、この3年間が特別に濃いと思う。
ずっと、背中にベースを背負っていた。
ケース含め約10kg、3年間でだいぶ逞しくなった。

暑い日も、雨の日も、部活の休みなんて月に2日ほど。
まわりの友達はバイトを始めていた、自分で稼いだお金で遊びに行ってた。

もちろんバイトする暇なんてなく、親に少しずつ援助してもらいながら夏は合宿、月に5本はライブ開催。軽音部の全員が、家族よりも、恋人よりも、この3年間に共に過ごした時間が一番長いのは、部員メンバーだった。

どこの野球部にも負けないくらいに体育会系だった。
「バンド」と一括りなイメージはチャラチャラしたイメージがどうしても先行してしまうけれど、チャラチャラする暇もなく(チャラチャラの仕方も分からない)バンドマンになってモテたい男子は、体育会系すぎる軽音部に耐えられえずに、1か月持たずに辞めていった。

そんなお堅い環境の中でも、高校生というだけで、やはり青春は生まれるもので…

「軽音楽の甲子園」と呼ばれる大会に向け、練習を重ねる。
シーズンオフ時は、他校との交流会ライブ三昧。
時には一般的な音楽イベントにも出場。
勝ち負けが生まれる場所には、「悔しい」「もっとうまくなりたい」という感情が生まれて、勝ち負け・優劣を部活仲間と共有して切磋琢磨する期間は、「集団でなにかを作り上げる」という経験の最たるものだった。

ステージに立つということは、それを見てくれている観客がいるということで。

演奏のスキルアップよりも、その先の、人に音楽を届けるにはどうすればいいか。
ひたすら音楽というものにぶつかっていた。

青春時代と呼ばれる期間を、どっぷりと音楽に浸かっていた私が得たものは、きっと、人生で音楽を楽しむにもってこいの「耳」なんだと思う。

今、楽器に触れる事はほとんどないけれど、日常の中に音楽は必要不可欠で、1人でいるときはほとんど音楽と一緒。

本当かどうかわからないのだけれど、だいたい高校生くらいまでの年齢で聴いてきた音楽が、その後の趣味嗜好に大きく関わるらしい。

一般的にこういう人が多いのかどうか不明点はあるものの、私の場合はまさにドンピシャで16歳で出会い、ハマった80年代・90年代の洋ロック、そこから派生はあるものの、ずっと洋ロックばかり聴いている。

似合わなさ全開だけれども、高校1年生の時に、先輩たちがコピーするMetallicaの「Enter Sandman」を聴いて私のHR/HM好きが目覚めた。

当時は今みたいなサブスクサービスもなく、ひたすらウォークマンにCD音源を読み込ませていた。

気になるバンドのCDをすべて買い集められるわけもなく、ひたすらレンタルショップを巡っていた。
田舎のTSUTAYAに洋楽アルバムの品揃え豊富なレンタルコーナーはなく、都会の店舗に趣味の合うレンタルコーナーを見つけてはまとめてレンタルするのが常だった。

アーティストの時代が時代なだけに、もちろん旧作。
まとめて旧作10作1000円、みたいなキャンペーンがほんとにありがたかった。(めちゃくちゃ懐かしい)

思い返すと、・VanHalen・TOTO・GUNS N’ROSES・BonJovi・Dream Theater・Nirvana・Journey・Nickelback・RHCP・Megadeth・Pantera・Ozzy Osbourne・Yes・Radiohead…etc
このあたりのアルバムをごそっとレジに持ち込む女子高生はかなり渋い趣味だったと思う。
(20枚借りて2000円、家でひたすら読み込み作業、が定番でした)


なんだか思い出話強めな日記みたいになってきている今回の記事を書こうと思ったのは先日参戦してきた「Summer Sonic2023」がきっかけ。

夏フェス、初参戦です。

私の一番のお目当ては、Fall out boy。

彼らのデビューは2001年。
上に挙げたアーティストからは少なく見積もっても10年以上若い、フレッシュなバンドだけれども、初めて聴いた時、その音の分厚さに惚れた。

雑食性のある彼らのサウンドは、ぼんやり聴くと「ノリが良い」と感じるポップな印象で終わるのだけれども、聴けば聴くほど、コーラスの重なり、ブラス系の音をミックスさせたバンドサウンド、ボーカルの広い音域、ポップで親しみやすいけど力強さのある音良い魅力がこれでもかと、バランス良く詰められている。

オルタナティブというジャンルに雑多に振られるのがもったいない。

高校生の頃は、田畑に囲まれた小道をベースを背負った自転車で、耳にはイヤホン。この通学スタイルが定番だった。
個性的なMVも何度も見た。

サマソニ舞台中のMCで「サマソニは20周年を迎えている、僕らも20年以上活動を続けてきた。これからやる曲は20年以上前に描いた曲です」みたいなフリがあって(英語は分からないので、だいたいこんな事言ってたんだろう、という憶測)実際にこの日のセトリは、一時活動停止に入る前の曲も多かったので、田んぼ道をロックなBGMで駆けていたいたあの頃が蘇った。



「音」について、少し語りたい。

音楽家の家庭に生まれたわけではない、ので、絶対音感はない。

でも、楽器が手元にあれば、だいたいのベース音は再現できる。
これが相対音感なのかなぁと、認識している。

かつ、もうこれは習慣のようなものだけれど、曲を聴いていると、その曲を構成するパート(楽器)がそれぞれ分解されて聞こえてくる。
きっと、楽曲をコピーする際に、低いベース音はどこかと、音を探しながら聞くことが癖になったのだと思う。

メロディーとベースも全て分けて聞こえるから、コード進行もだいたいわかる。ただ、絶対音感はないので、ドレミに置き換えられるのではなく、「あの曲とこの曲は使われているコードが同じだなぁ」といった印象。

「ギターはどんなリフなんだろう」「ベースの指使いは」「ドラムの動きは」「打ち込みの音は」なんて、各パート毎に注目していると、1曲を何度も何度も聴いてしまう。

実際に楽器を触らなくても、数回曲を聞くだけで、ドラムの手の動きやギターのストロークの動きが頭で映像化されている。

ここまでくると、なにか曲を聴くと、「このコード進行の使い方、あのアーティストの影響めちゃくちゃ受けてるな」「最近はどのアーティストもこういう曲作りしてる、流行ってるのかな」などという勝手な憶測まで立てらてるようになる。
(個人的に今の邦楽界は宇多ヒカル等2000年ジャストくらいのヒットアーティストのリスペクトをすごく感じる)


音に注目して楽曲を聴いていると、歌詞の存在感はどんどん薄くなってくる。
英語ができるわけではないので、英詩は何を言っているのかわからない。

なので、よく聞く「この歌詞めちゃくちゃ染みるわ~」みたいな事は言ったことがない。
むしろ、同じような曲構成(A・B・サビ・A・B・サビ・C・大サビ)に陥りがちな邦楽を聴いているよりも、自由な展開が多くて、ソロも刺激的で、何の音?って感じの組み合わせもあって…
よりバラエティー豊かな海外の楽曲にのめり込むことは自然なことだった。


こんな感じに好きな音楽について語り出すと、もう止まらなくなってくる。

前述したけれど、学生生活の中の濃い音楽環境は、私に「良い耳」を与えてくれた。

何を聴いても、音を分解できる。

その音の層が分厚い程、まとまりのある曲は難しくて、一歩間違えれば、「どこかで聞いた事あるな」というありきたりな音楽になってしまいがちな中、いつも新鮮な気持ちでポップなロックを届けてくれた彼らのフェス舞台を見れたこの夏は「最高」の一言。(しかもアリーナ5列目くらい!めちゃくちゃ近くで跳ねた!)
(彼らについては、「曲の雰囲気が変わった」という声もあるけれど、「それもまた流行りのサウンドなのね」という風に受け止めて、もうファン歴は10年を超えていた。)

他にも沢山好きなバンドはいるのだけれどだいたい共通しているのは音の層が分厚いこと。

ただうるさいだけの賑やかなハードロックは簡単だけれども、構成のバランスが良くて、展開が感動的で、音の重ね方に虜にされるバンドはそうそうなくて、そういうバンドはつい追ってしまう。

私の語彙力では、どういう部分に惹かれたか、という事を詳細に語れないのが悔しい。


私の好きな小説のうちの1冊に岸政彦さんの「リリアン」という小説がある。そこに出てくる会話文の一部。

音楽って、なんか怖い。
そう音で決まってる感じ。人間が要らん感じ。
うん。
ほんまやな。
人間が音を弾いて、それが伝わるんとちゃうねんな
うん
人間か生まれてくる前に、音の順番みたいなものが決まってて、その後に人間が生まれてきて、だからそういう順番の音を聞くと、そう感じるようになってるねんな。
俺もそう思う。
怖い
怖くはないやろ。
そやな、怖いっていうか。不思議?
そうやなあ。
不思議。
俺たち要らんみたいやな。
そんな感じする


どっちでもいい。あの話好き。人間要らんって言って。
きれいな音の重ね方って、もう最初から決まってるねんな。
この世界に人間が生まれてくる前に、もう決まっててんな。
でも、たぶん、それを奏でる人間がおらんかったら、その音の重なりも生まれへんかったと思うけど。

岸政彦「リリアン」



曲を構成する音は、シンプルに「ドレミファソラシ+半音」のみ。
この限られた世界で、とんでもない数の楽曲が生まれている。

音楽のジャンルが変わっても、このドレミは一定。
ビートや楽器・構成が変わるだけで、別のジャンルが生まれる。音の組み合わせは、もうセンスとしか言いようがなく、まったく同じような曲が生まれないのは本当にすごい。

もし私が、「今から作曲して」と言われたら、もうどこかでありそうな曲調しか出てこないと思う。

しかも、このリリアンにずきゅんと来たポイントは、「既に心地良いコード進行は決まっている」ということへの共感。

ノリの良い曲ならこういうコード、悲壮感をだすならこのコード、このコードはシティ感が出る(最近本当に多い!)など、「おきまり」とされている構成は既にあるのに、同じ曲が生まれないのはもうあっぱれ。

イメージで言うと、砂糖・醤油・みりん・酒、の「絶対間違いない!」と決まっている和食定番調味料から、何品も違う味付けの料理が生み出されるイメージ。

むしろ、「この人たちはこのコード進行をこういう風につかうのか~」と新鮮なミックスも多く生まれる。

音楽って本当に奥が深い。
奥が深いぶん、ずーっと夢中になっていられる。

常に生み出され続けるコンテンツ、ここにハマるということは、一生楽しめる趣味といっても過言じゃないと思う。


サマソニは、コロナ禍の影響もあって、「声出し」が解禁されるのは4年ぶりだそう。

フェスは普段聴かないアーティストにも触れられて新鮮。
同じ会場にいるのにそれぞれ推しが違って、みんな誰かを推していて、そこを見ているのも面白かった。


10代の頃、「好きなアーティストは?」と聞かれて返すと「お父さんの影響とか?」と世代違いを指摘された。
めちゃくちゃバンドしてます!みたいな見た目でもなかったので、HR/HM好きのギャップに驚かれる事が多かった。
同年代と好きな音楽の話が出来なかった、むしろ「80年代も好きでよく聞きます」みたいな事は少し恥ずかしくて言えなかった。

でも好きでいたから、音楽好きがずっと飽きなく続いていて、10年以上好きな彼らが出るフェスに参戦することが出来て、良い思い出になった。


ニュースで見ると、多くの熱中症患者が出ていて、実際、屋根のないアリーナはいつ倒れてもおかしくない状況で、良い思い出だけじゃない人も沢山いると思う。

気温についてどうこう言っても仕方ないし、開催がなくなれば寂しいし、けれど、もう少し安全で、運ばれる人の少ないイベントが続けばいいな。


あっという間に最終の新幹線の時間で、東京駅を小走りで駆け抜け(アリーナ立ちっぱなし6時間に加え、駆け抜ける体力がまだあったことに驚き)途中の成城石井で買ったジャージャー麵を新幹線で食べた途端、眠気が襲ってきて、「動く・食べる・寝る…これぞ人間…」と人間の真髄を感じた気がした。

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