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essay|心を癒すための

心を癒すときに行うこと。

手っ取り早く「旅に出る!」なんてこと、できたらいいのだけれど…限られた休日、旅行に避ける資金が沸いて出てくるわけではない。これはほとんどの人が同じだと思う。

いまだに、「脱サラした結果○○で大儲け!」みたいな文句には怪しさしか感じられず、私とは違う世間にいるみたい。
「どうにかして旅行気分を…」と求めると、現代の技術でVRやらARやら、疑似体験に近いことは時間をかけられずにできそうだけども、私が求める「心を癒す」とは、また違う方向を向いている。


そんなこんなではあるけれど、ふと、疲れたな…と思うときにしている行動・やりたいと思っていることに統一性があると感じた今日この頃。この「疲れたな…」は肉体的な疲れではなく、会議で思っているように意見が伝わらずに強く言い返されたとき、少し先まで予定が詰まっていて現実離れしたいのに…と嘆くとき、そんな時の「疲れたな…」が当てはまる。(書いているとすごく苦労人みたいだけど、そうではない)


「お菓子作り」をしたくなる時というのがある。

「食べたい」よりも「作りたい」が勝るとき。食べたいから作るのではなく、作りたいから作る。もちろん作って食べるけど。
定期的にお菓子作りをしていると、基本的な粉類や調味料はキッチンに揃っている。特に粉類は保存方法さえ守れば、賞味期限が長いものが多いので、買い揃えるのも楽。
私が作るお菓子の多くは焼き菓子。周知の通り、焼き菓子は簡単に言えば粉と液体を混ぜて焼き固める。生の卵や油の混じった生地の状態では、とてもじゃないけど味見しようとは思えない。なので、私の中では「味見のしない料理No1」とも言える。どの焼き菓子か、にもよるけれど、出来上がりに重要なのは、材料の配分・混ぜ方・型と温度(熱の通り方)だと思う。
しかし、専門的な勉強をしたことはない、もちろんパティシエでもないので、目利きや感覚では、正解通りの作業工程かは中々判断しずらい。レシピや動画を参照しても、使っている砂糖の種類で生地の色は変わり、室温の差で作業時間にギャップが生まれ…結局「正解だ」と判断するのはレシピではなく、自分になる。
なんだかここに落ち着きを感じる。
つくるも自分、結果も自分、この混ぜていったモノの先になにが出来上がるのか。作業中、頭に思い描いた焼き上がりを想像して一人キッチンに立っているのが癒しになっている。
お菓子作りは、普段(仕事で)使っている部分とは違う頭の使い方をしている感じがして心地良い。慣れてくると、時々「こんな出来になるのか!」と新たな発見をしたり、季節の果物を使ってみたり、楽しさの幅が広がってくる。
誰の評価やフィードバックも受けない、作業工程で味見をしたり何度も確認ができるわけではない。でも大抵の美味しくなる組み合わせは決まっていて、そこから自分好みの出来を目指す…
私が私の作業を決めて結果を得る。(そして焼きたてを食べられる!)
黙々と無になれる時間。
そんなキッチン時間が癒しの一つ。


なんだか頭の中が行き詰まる時、あぁ本が読みたい!!読書の為の時間を設けたい!となる。

疲れてなくても本を読んでいるので、通常通りと言えば通常通りだけれども…本棚を眺める度に、「昔はまさか読書が趣味になるとは思っていなかったのに…」と今でも信じられないような客観的な自分が生まれる。
残念ながら、読んだ本の内容を全て覚えているわけではない。「あれ、あの話のラストどうなったんだっけ?」がしばしばある。内容で言うと、映画などの映像化されているものの方がしっかりと内容やあらすじを覚えている。それでも積読が多かろうが、本棚に詰められている本たちは、しっかりと私が触れてきた文字の集まりで、何万と印刷・製造される同じ本がこの世にあふれているけれど、私自身が私なりに活字を受け止める体験は決して他では生まれてなくて…
うまく言えないけど、自分のペースで文字を追うのがいいみたい。
なので忘れちゃう予定の読書もまた良し。
私はもうクセで感想みたいなのを書いちゃってるけど、読書に対して、「必ずなにかを得なくちゃ」「感想を書かないと」「何冊読まないと」みたいなノルマは一切必要なく、「じゃあ、なにに活かせるんですか?」「知識にしないと」とか言われても、無意味で自由な読書こそ、最高のひとり没頭時間だと思う。(じゃあ没頭しないと…!みたいな使命感がまた出できそうだけど、なんせ疲れているときくらい無意味でいいんです。)
頭の中が行き詰まって、疲弊している時こそ、読みたくなるのがエッセイ。自分ひとりとひたすら向き合っていると、疲れているときや落ち込んでいるときはネガティブな方向に物事を考えこんでしまいがちになる。この考え込むのを阻止してくれるのがエッセイ。本の選び方に決まりはないけれど、自然とこんな気分の時に読んでいるのはほんの少し、人生を覗き見で着るような本。その人の、なんでもないけれど、通ってきた道がわかる本を読んでいることが多い。
出版時期やエッセイのスタイルにもよるけれど、少し「昔ね、こんなことがあってね、」と昔話を聞いているような…
中には、笑い話になっているからオールオッケー!みたいなテンションの失敗談みたいな話もあったり、親近感が沸いたり、一方で想像もつかないような生活の色々が描かれていたり、「自分と向き合って良い事ない時は他の人の事を考える!」その一心で、エッセイから追体験を得ているのかも。


自分と向き合いたくない(ネガティブになっていくから)というときはラジオもよく聞く。キッチンに立つとき、ひたすらPC作業のある時、散歩しながら…ながらラジオで話を聞くのも面白い。
手は別のことをしているのに、頭はすこーし現実逃避しているかのような。
最近よく聞いているのは「北欧暮らしの道具店」のインターネットラジオ「チャポンといこう」
今は配信数が150本を超え、全てアーカイブ化され過去のものも遡って聞くことが出来るので飽きない。進行のお二人のお話トーンがすごく心地よいラジオ、(おこがましい100%で)頷き役として参加したいくらいに好きな雰囲気。大変なんだろうは重々承知の上で、お二人の楽しそうな空気が伝わってきて、ラジオの収録ってめちゃくちゃ楽しそう!



心が疲れているときは、感情や考えみたいなのが、パンクしている。
パンクしているということは溜め込みすぎているということ。
ここで無理にキャパシティを広げようとしてしまうと、次は肉体的に疲弊してしまう。ので、「しんどいかも」と思う毎にアウトプットを心掛けている。

そもそも、溜め込んでいない状態というのはきっと心が疲れていない。
常になにかをアウトプットしている限り、その結果、良いものが得られると、心の疲れとは真反対の位置にいるだろうし、良くない結果・失敗があったとしても、その結果を受け止めているので、もやもやはないと思う。
パンクしてしまうくらいに溜め込む、もやもやとしているものは自分の中で消化できていないもの、ざっくり言うと「心の消化不全」として私はデトックスを始める。

デトックスという言葉の響きは大げさかもしれない、単にアウトプットする。今考えていること、思いでも単語ベースでも、とにかく何か書く。
紙に書こうが、スマホやPCに打ち込もうが、とにかく書く。紙や画面に現れるだけで、自分の中からそこに移動していった感じがする。
誰に見せるわけでもないものが、小さな救いになっているのかもしれない。


また、キャパシティを広げるわけではないけど、なんだか落ち着きのない心を静めるのに「ToDoリストの消化」というのも行っている。

マメで計画的な人なら、そもそもToDoリストの項目が更新されない、という現象にはならないのだろうけど、疲れているときは特に、めんどくさがりに拍車がかかり、どんどん手につかないことが増えていく。

少し銀行に寄り道して帰るだけ、1件報告書を出すだけ、1通確認の電話を入れるだけ…そんな些細な事なのに…と自分でも些細だと捉えている事が、めんどくさくなって出来なくなる。
ので、いっそのこと、全て済ませてしまう。
もうこれは意図的に向き合うしかない。
それと、理想からくるToDoリストは「お休み」として排除してしまう。
例えば「〇曜日には必ずパックをして寝る」みたいな、肌が綺麗な人に憧れて習慣化していきたい項目だけれども、お風呂上りにすぐに寝て「あ…またパックしてないや…」と落胆するよりかは、そんなものリスト化しない方が良い!ということで簡単に言うと自分にとても甘くなる。
あれも出来ていない・これも出来ていない!と焦ったり落ち込んだり、心がせわしなく動いてしまうので
やることやって寝る!これが一番な気がする。


なんだか疲れた疲れた、と愚痴をこぼすような話になってしまったけれど、生活が続く限り、必ず自分にとって不快なことにも触れてしまう機会はあるわけで…

だからと言って、嫌だ!と泣いて表現したり、誰かの時間を奪って話を聞いてもらったり…幼児のような解消はできないのが大人。

大人のやり方で心を保とう。

時には、時間を気にせずお酒を片手に語り合ったり、
深い話が出来る友に話を聞いてもらったり、時には思いっきりアウトプットしたり、大人には大人の楽しみ方がある。

私のやり方で、私の平凡を続ける。

皆様の平凡も、いろんな形でのぞかせてもらいながら。


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