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そして今、船出。

本日もご訪問いただき、誠にありがとうございます。ケロリンです。

前回は、これまでの習慣を見直したら体に起こったことを具体的にお伝えしました。

今回は結局それがこころにどんな影響を与えたかについて書きたいと指が言うので、書かせることにしようと思います!

よろしければ最後までお付き合いいただけましたら幸いです。


自分の価値観の移り変わりの初期

今まではサポートした人が満足な結果を出して、
次のステージに進んでいくことが「自分のしあわせ」
だと思っていた。
そうして、何人もの社長の背中を見送ってきた。
それでいいと、それがいいと思っていた。

「サポートすること自体」が「得意なこと」だし、
「一番楽しいこと」だし、「それが生きがい」だと思っていた


そのような考え方の土台にあった【母という人物】

母が決めた母の生き方

そう思うようになったきっかけは、そんなに難しいことではなく、
母の影響によるところが大きいと思う。
母が同じように、自分の時間も、人生も考えも、「家族のため」にあると当たり前のように考えそれを疑いもしない生き方を貫いたのを最も近くで見ていたから。
母はできた人だったので、本当に貴重な内助の功で3人の娘を大学まで卒業させたし、父の実家に決して少なくはない仕送りをしながらマイホームの夢を実現させるのを支えたたし、ローンを返し終わった時の晴れ晴れした報告顔は今でもはっきりと覚えているくらい、「誰かのため」を最優先した人だった。

そんな母に訪れた人生の転機

だけど、私から見ると、あまり「幸せそうには見えない人」だった。
今考えるとそれは、私の底にある私自身の本来の価値観なのだけど、
母が全身全霊で人生をつぎ込んでいた「家族」は、なんとそのことについてありがたみをもたない接し方をしていたことか、と思うのだ。

たまに口をついて出る愚痴を聞きながら、母が、好きなインスタントコーヒーを飲みながらブルボンのお菓子を食べる時間を眺めていることも、わりと頻繁にあることだった。
それぐらい、感謝のことばというものを言わない人々だった。まあ、そこで私は自分だけいい子になるつもりもないのだけど、「人のふり見て我がふり直せ」と何度思ったことか。

そうして、母の中に積み重なった「何も言わずにすべてを受け入れるストレス」は、「いずれ自分が自由になったら・・・」という光の世界のしあわせな妄想へと置き換わっていった

母が元気なうちはそれ【でも】よかった、と、一応これだけは言っておこうと思う。

しかし、その後母には、「いずれ自分が自由になったら・・・」という光の未来全てを、ステージ4の癌を宣告されることで奪われてしまうという事態が襲いかかる。。。

母の抱えきれない「やりきれない思い」

母は文字通り発狂した。その「現実」をやすやすと受け入れることができず、思い通りにならない、ならなかった自分の人生、これまでの生き方に対する怒りをすべて私にぶつけてきた。

そんな時だけ、皮肉にも私以外の家族は「よき家族」を演じていたからである。(もちろん、家族は確かにできる限り最大のことをしていた。ひとりは旦那さんを大阪に置いてつきっきりで付き添いしていたし、ひとりは毎週末東京青森を往復していた。)

そして、「今できる範囲でできることをやるのがせいいっぱい」という私を全員が全員別の思惑で村八分にした。

この話はこれ以上書いても、私が言いたいことの本日から外れてしまうのでここで止めるが、この「母の無念」というか、「自分の人生自分の思うことをやって生きればよかった」という形があるようでないような、ともすれば「念」になって渦巻いていたともいえる思いは大きく私のその後の独立後の仕事観に影響を及ぼすことになったとこころから思う。

価値観が変わるきっかけになったのはいったい何??

では、そこまで何年も何年も私を支配し続けた「母の考え=自分の考え」という価値観が変わったきっかけになった出来事とはいったいなんだったのだろうか。

➀つには、「勝たなければしあわせになれない」と思い込んでいたことに気づいたことだと、確実に言えると思う。
これは、母に実際に聞いたわけではないのでわからないが、母が「私の人生これで終わるということは、結局負けたのだ」とあきらめたときに「死」が訪れたのだと私は感じている。

その私の思い込みが、ずっと私を支配していたことは間違いない。なぜならば、私が母の口から最後に聞いた言葉が、亡くなる1週間ほど前に帰省したときに言った「もう、いいの」という言葉だからだ。
その、4日後に母は息を引き取った。

「もうこれで満足だ!やりのこしたことは、いっさいない!」の意味での「もう、いいの」ではなかったことだけは明確にわかる。
そして、母の全員に向けての遺言は「私がひとりで入る墓を絶対につくってくれ」。

そんな背景から、「勝たなければ、しあわせになれない」は、無意識のうちに私のキーワードにもなっていた

もちろん一番大きな要因はそれではなく、私の最初の再起(人生リスタートの正社員としての就職)の際の自己不信にあるのだけど、その8年後の独立後、何をしていきたいかの意思決定の際に“共依存”のようになってしまったのは、今更ながら母に深くお詫びだ。ごめんなさい。

知らず知らずのうちに「同じ土俵にあがって勝負していた」のだ。
そこじゃない、のにね。

②つには自分を大事にすること、という意味を次第に理解したから、と思う。
これは2つ記事を過去に書いています。

さきほどの「勝たなければしあわせになれない」と大きく似通うかもしれないが、今自分がしあわせでないと感じているということは、「負けている」と感じているということ

自分の周りには誰もいない、誰も応援してくれる人がいない、家族は少しも信頼できない、ないないないないと自分で自分を孤独に追いやって勝手に不幸になっていたと今は思う。

だって、魔法がとけた今、冷静に考えると、ぜんぜん自分はひとりなんかじゃないし、たくさんのものやことが本当にあたたかく見守っていてくれる

あそうそう、冬になって枯れてはしまったけれど、6月の半ばから12月までずっと私の家の浴室にいてくれた【ながいもん】も応援してくれていたよ。

そして、こんなに応援してもらって、元気でいられる自分が、一番自分のしあわせを信じないなら、それこそ誰もなにもいなくなってしまうよ、と気づいたんであるのです。

今までがそうだったのなら、これからは誰よりもしあわせな自分を毎日想像どころか思い切り妄想して声に出そう
新月満月のエネルギーが流れる晩には紙にも書き出そう。

そうやって、私は自分の中の思いで、自分のしあわせをフルチャージにしていった

そうしたらね、その思いに賛同してくれる人がだんだん周りにいてくれるようになっていったの。

この変化が、冒頭の価値観を文字通りぶっ壊し、考えの方向を変えていったんだと思っています。

今我思う。ゆえに我有り。

〜他人の夢は代替物にしかならない〜


で、冒頭からつづく。
でも、それは違っていた。
正確には、「違うと思う」方向へと自分の内心が変わっていった
いつの間にか、自分の周りにあった「心地よい環境」は、いつしか気づけば、「窮屈な環境」に変わっていた。
アパートのお風呂で足を延ばすことができず浸かっていて、それ自体いたって満足な日常なのだけど、たまにスーパー銭湯などにくると「手足のびのび浸かることができるしあわせ」に気づくように
「手足のびのび浸かることができるしあわせ」が、自分の中で一番大切に、一番優先したい価値に変わっていた。

自分の中に刻まれている時間が、起きている間中
「誰かのために使う時間」につかさどられ動いていたのが、
「自分のために使う時間」につかさどられて動くようになっていた

そうして、これからは「自分のためにどう時間を使うのか、そして自分はどこに向かってどうして生きていきたいのか」という課題に向き合っていこうというところまで追い付いてきました


一時期は一卵性親子とまで言われていたこともあったんだよね。
おかあさん。
けど、上出来な姉らと比較される苦しい日々を頻繁にもたらすひとでもあったよ。(笑)
私は50年以上かけて、「自分で決めて自分で生きる自分のための人生」のスタートラインにふたたび2024年につきました
理由は、【誰かの夢は代替品にしかならない】から。

出典 漫画 お父さんが早く◯にますように


前回は挫折しちゃったけど、今回はこの先よくなる道しか見えてないから、わるいけどひとあじもふたあじも、違うわよ(^_-)-☆


まあ、そこでのんびり見ていてよ。
ぜったいにたいくつはさせないから!


ここまでお読みいただきありがとうございました!
またよろしければ次の記事でもお会いできますことを楽しみにしております☺


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