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与論は「ゆんぬ」。ゆんぬのゆらい?

①与論町誌のページ数

1~4ページ

②要約

●「ユンヌ」、「ユウヌ」、「ユルン」、「かいふた」、「由論」、「與論」「与論」。時代や表現者(呼ぶ相手)によって様々な呼ばれ方をしてきたよ。
●「ゆんぬ」という呼ばれ方は、十五夜踊り(16世紀から続く伝統芸能)の中ですでに表現されていたよ。
●「与(與)論」という表現は、琉球からきた世之主さんが役職名?人名?にこれをあてたことがはじまりとも。(定説ではないよう)
●17世紀には、「與論」がオフィシャルネームに!?
●様々な由来はあるが、定説がなく今後も更なる研究が必要。(エビデンス弱めらしい)

③感想(私的解釈や学び)

「与論人」と表現するより、「ゆんぬんちゅ」の方が柔らかくて優しい響きなので好きですw
地名だけではありませんが、言葉は文字より音が先と言われています。音に本質があるというか。無理やり漢字をあてると、本来の意味とは違って伝わったりしてますよね。
言葉や文字を統一化することが、国家を作り上げるうえで必要なことですが、せめて地域に住む人間がその言葉本来の意味を忘れないようにすることが大事だな、と思いました。地域の希少性。
それにしても、『おもろそうし』に出てくる“かいふた”。。。ヤ行からのカ行っ!!どんな捉え方をしたのか気になります。
ゆらりゆられてゆんぬんちゅ。

④本文引用

「ゆんぬ」と「与論」
 「ゆんぬ」というのは与論島を指す名詞であって、島内の住民はもとより、沖縄本島や沖永良部島等では古くから言い伝えられてきた言葉でもある。
 そしてその「ゆんぬ」は、「ゆんぬちゅる島やイニくさやあしが、ナビ底中スクナカ五穀グクタマる」といった具合に、古くからだれ言うとなしに歌い出され、歌い継がれてきた名歌の中の言葉でもある。
 一方、十六世紀中頃に組み立てられた島の十五夜踊(豊年踊、二番組)の中でも「ゆんぬちゅる島やヨー小くさやあしが......」と歌い込まれていることから考えても、その頃既に島では「ゆんぬ」という言葉が島名として用いられていたことは明らかである。
 ところで「与論」という語句は、十六世紀の初期に又吉與論世之主が琉球王から派遣され、按司アジとして島の行政に従事したことからはじまり、この島主の名をとって島の名称として「与論」という漢字をあて、その後殿内與論主とか、川内ホーチ與論主といった具合に、人名に「與論」の文字をあてるようになったのではないかとも言われている。
 『沖永良部島沿革史」によれば、「慶長十四酉年、薩摩藩主島津家久、幕府の命を得て琉球を征伐、大島、喜界、徳之島、沖永良部、與論五島をかしめその版図に入る」とある。
 またその頃発刊された『沖縄志』によれば、「家久(島津)其臣上井里兼阿多某ラ琉球ニ遣シ土地ヲ検シ経界ヲ正サシム  十五年(慶長)三月里兼還リ検地帳ヲ呈ス乃チ大島徳之島喜界沖永良部與論ノ五島ヲ以テ薩摩ノ直轄ト為シ......」と記されている。


 これらのことからして十七世紀当時既にこの島は、公式の島名として「與論」が通用していたことが明らかである。
 ひるがえって沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』(十六十七世紀刊、二十二巻)の巻十三には与論島の地名と思われる「かゐふた」のことが歌い込まれている。この巻は、南島の航海にあたって海の神々にかりゆし(航路の安全)を祈り、喜界島から沖縄の首里に至るまでの奄美の島々と、沖縄本島西海岸の要所要所についての紀行詩である。
 そのなかで與論に関連するものとしては、
  (前略)
又 中瀬戸内から 金の島(徳之島)にかち
又 金の島から せりよさ(沖永良部島)にかち
又 せりよさにから かいふた(与論島)にかち
又 かいふたにから 安須社アスモリ(辺土)にかち
  (後略)
とある。(括弧内は筆者の注解)
 これによって考えると数百年前の与論の島名(または一部の地名)が「かいふた」であったことがうかがえる。
 また、『おもろさうし』には「よろん」という地名が登場し、また「よろんこいしのか」という言葉もあちらこちらに使われているようである。だがこの場合の「よろんこいしの」は、よろんの女神職(祈女・ヌル・ノロ)のことを指したものといわれている。
 坂口徳太郎著『奄美大島史』によると、「與論島を現地ではユンヌ・・・とよんでいる。一説によると與論は島の義なり。古くは〈由論ユロン〉とも書き、支那人は繇奴ユウヌ島(ユウヌ島又はイウヌ島)と称す。何れ近世の文字なるべし」と述べられている。
 もと鹿児島県立図書館副館長の栄喜久元氏は、「文献上にあらわれている“ゆんぬ”または“與論“に関する古い記録としては、『奄美大島史』によるもののほか、明治三十四年に冨山房から発行された『大日本地名辞典』(吉田東伍編)に中国の明人の書に”繇奴につくれり“とあり、また琉球の『中山伝信録』の中に三十六島のうちの東北八島の一つとして”由論”‘の名が出ている」と述べている。

 ところで前述の『奄美大島史』の中の一説とはいつ頃のだれの説であるか、『大日本地名辞典』の中の中国の明人とは何人を指すのか、『中山伝信録』の中の由論というのはだれの説に基づくものであるか等々、まだ判明しない点も多いのである。
 それとともに、古代は言うに及ばず、中世紀以来、「ユウヌ」「ユルン」「ユンヌ」「かいふた」「由論」等と言われてきたこの島の古名については、確実な文献資料も極めて乏しく、統一的な見解に基づく学術的定説もほとんどない状態である。今後学術的検証の積みあげによって、これら判明しない多くの課題が一日も早く解明されることを期待したい。

注(1) 「琉球三十六島」
 北は現在の大島本島や喜界島から、南は八重山群島の波照間島に至る約七○○キロメートル間に散在する諸島。東四島・正西三島・西北五島・南七島・西南九島・東北八島の六群島から構成されている。現在では無人島を除くと約七十島存在している。
 「東北八島」とは、現在の喜界島・大島本島・加計呂麻島・請島・与路島・徳之島・ 沖永良部島・与論島の八島を指している。
 『中山伝信録』の中では、由論(与論)・永良部(沖永良部)・度姑(徳之島)・由呂(与路)・烏奇奴ウキヌ(沖野)・佳奇呂麻(垣路間)・大島(大島ウシマ)・奇界(鬼界)というふうに表されている。

(2) 『おもろさうし』
 首里王府が奄美・沖縄に伝わる歌を一五三一年から一六二三年にかけて、少なくとも三回にわたって採録した沖縄最古の歌謡集。全二十二巻。

(3)「世之主」(よのぬし)
 地方の領主。現在の町村長にあたる。統一国家成立後は国王も世之主といわれていた。

(4)「按司」(あじ・あんじ)
 琉球王統治下における各地の政治的支配者を言う。王朝時代には位階名とされていた。

(5)「與論」と「与論」
 本土では昭和二十四年四月二十八日以降内閣訓令第一号「当用漢字体表」に基づいて各地の市町村名も大分当用漢字に切り替えられた。 本村でも琉球政府管轄時代、村名の表示を「与論」と改めるようにし、役場をはじめ各官公署では日本復帰前すでに「與論」と「与論」を双方併用していたのであるが、昭和三十年頃から当用漢字の「与論」に統一され、やがて町章にも与を採用するようになって今日に至っている。
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出典:「「ゆんぬ」と「与論」」.『与論町誌』.与論町誌編集委員会.与論町教育員会,1988,p.1-4

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出典:与論島クオリア,喜山荘一さん

出典:さすらいの風来簿,原田誠一郎さん

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