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清野土半さんのこと 〜楽園のイメージを確立した男〜

 かつて与論島が日本の最南端だった頃、多くの若者がここを目指し、その中の幾人かは島に移り住んで新しい島の文化を作り上げていきました。

 2020年に亡くなった清野土半さんもそのひとり。福島に生まれ、与論に流れ着いてから50年余り、島の看板屋として生計を立ててきました。しかしその仕事は看板屋と一括りにすることができないほど多岐にわたっています。

 たとえば与論空港を出て最初に目にするシャコ貝をいただいたモニュメント、マラソンコースに点在する頭が鳥・体が魚のかりゆし像をのせたマイルストーン、与論随一の観光スポット百合ヶ浜で記念撮影をするとき手にするヨロン島ボードなどなど……。巨大なものから小さなものまで、これらはすべて土半さんの手になる仕事です。

 与論島が観光を主な産業としてさまざまな施策を打ってきたなかでエポックメイキングな出来事が、1983年のパナウル王国(架空の独立国家)建国と翌84年のギリシャ・ミコノス島との姉妹都市提携。これ以降、リゾートアイランドとしてのヨロン島のイメージが形作られていきます。そして85年には島内最大の宿泊施設、プリシアリゾートがオープン。こうした動きの中、土半さんは職人の腕を遺憾なく発揮して数々の造形物を生み出しました。

 先に紹介したもの以外にも、この記事トップ画像の茶花海岸ステージをはじめプリシアリゾート内、海岸や観光スポット、施設・店舗などいたる場所で出会う、独特の丸みを帯びたセメント製のモニュメントや看板が、ビジュアル面においてリゾートアイランド・ヨロン島を印象づける大きな役割を担っています。

 娘である紅型作家の紅若菜さんが、2017年に土半さんと父娘2人展を開いた際に制作された写真集をネットで公開してくださいました。きっと、あれもこれも土半さんの作品だったのか、と驚かれることと思います。
 生涯を与論島観光を支える裏方として送った土半さんの足跡を、ぜひ下記のリンクよりご覧ください。


山の国に住みつつ与論島をテーマに活動中。なぜ? どうして? その顛末は note 本文にて公開中!