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与論島へ旅したらオンラインストアを始めてしまった


きっかけはたまたまだった

 与論島を初めて訪れたのは2010年のこと。戦後、沖縄復帰までは日本の最南端だった鹿児島県の離島です。そこを選んだことに大した理由はありませんでした。観光客が少なそうな、簡単にはたどり着けない場所へ行きたいなと思い、与論島と小笠原が候補に上がったのです。しかし、行き帰りで1週間以上の行程となってしまう小笠原は、さすがに各方面に支障が出てしまうという理由で却下。旅の目的地は与論に決定しました。実際調べてみると、与論へ渡るのは意外と楽な行程だったのですが。

 与論へはフェリー、あるいは航空機でアクセスします。海路は鹿児島、沖縄からそれぞれ1日1便。空路は同じく鹿児島、那覇からともうひとつ、奄美大島とを結ぶ離島間の便があります。

 この時は鹿児島経由のJALを利用しました。羽田から鹿児島まで飛び、そこからは系列のJACが飛ばす小さなプロペラ機に乗り換え。通路を挟んで左右に2列の座席が並ぶ、定員40人程度のバスのような飛行機です。桜島を横目に飛び立つと、眼下に青い海と点在する島々を見下ろしながら、約1時間半で与論上空へ差し掛かかります。そこにあったのは、ひときわ明るく輝く珊瑚礁に囲まれた緑色の平坦な島でした。

 降り立ったのはなんとも簡素で小さな空港。当然ボーディングブリッジなんてものはありません。飛行機のドアを外側へ倒すように開けると階段に早変わり。ほんの4−5段ほどをトントンと下って直接滑走路に足を降ろします。到着口には南国の花が描かれたベニヤ製のゲートが据えられ、「おかえりなさい」とありました。迎えにきた宿のスタッフも開口一番「おかえりなさい」。初めてだろうがなんだろうが、これがこの島の挨拶のようです。不意打ちだったので、どう返事すべきか、ちょっと困ってしまいました。

 ほんのりくたびれた空港を出て、ほんのりくたびれた送迎車に乗ります。他に客はいません。基本的にあらゆるものから、くたびれた空気が発散されているように感じました。
 沖縄返還前は日本の最南端として空前のブームを迎え、若者が殺到したというのですが、そんな日々もうたかたの夢。当時のまま何もかも歩みが止まってしまった印象です。
 やばい。4日も滞在して暇を持て余さないだろうか。そんな事を考えながらぼんやり車窓から外を眺めていると、サトウキビ畑を抜けて差し掛かった坂道で景色が一変しました。さぁーっと目の前に広がったのはターコイズブルーの海。

 一瞬で、それまでの心配はすっかり消え去りました。

 結局、取り立てて観光名所があるわけでもない島なのに、4日間では短すぎると感じるほど、満ち足りた時間を過ごしました。

「島に呼ばれたんですよ」

 与論に繰り返し訪れる人たちがよく口にする言葉です。
 自分もそう感じたのですが、この島自体が割と見境なく誰にでも声をかけるようです。そのせいか観光客のリピーター率は高いとのこと。そして何度も通うほどに島人たちとの交流も増え、ますます島から離れがたくなっていくのです。
 自分も御多分に洩れず、つづく2011年も島を訪れ「おかえりなさい」の言葉に迎えられました。今度は「ただいま」と返事しながら。

最初はただの観光客だったのに

 そして2012年夏、わずかひと月の間に16号17号と猛烈な台風が島を襲いました。実に島の建物の3分の1が全半壊という、台風に慣れている島民でも経験したことのないような惨状です。2年続けて宿泊した宿も屋根を吹き飛ばされ規模を縮小しての営業となっており、1泊を確保するのがやっとという状況。
 台風から半月後に訪れると、滴るような緑に覆われていた与論は、すっかり赤茶けた色に染まっていました。島を一周する県道を車で走る間に見えるだけでも、そこかしこに屋根や壁やを失って痛々しい姿をさらしている建物が多く見られます。海辺では浜が大きく削られ、防風林のモクマオウが息も絶え絶えにうなだれていました。
 訪れるたびに自分の生命力をチャージしてくれていた島が、いま満身創痍で何も言わず臥している。胸をかきむしられるような思いです。

 しかし、島の人は笑って言いました。
「この島は何度も台風にやられてるけどね。きっとすぐ元どおりに復活するよ。だからまた帰っておいで」

 何か島のためにできることはないだろうか。帰りの機中で島の姿と島人の笑顔を思い出しながら考えていましたが、すでに気持ちは決まっていました。あとは、いつやるかだけです。

 家に戻るより前に、頭の中では作業を始めていました。
 そう、チャリティーTシャツを作るのです。ありがちだけど構いません。自分にできるのはデザインです。
 それからは印刷業者を探し、ネットショッピングのサービスを契約し、デザインを仕上げ発注し、と大車輪。どうせなら一度きりのものでなく、ブランドとして立ち上げて継続的に与論の私設広報活動をしていけたらと、構想は広がっていきました。

 そして1ヶ月あまり。ただの観光客だった自分が、本当にTシャツ6種を揃えたオンラインストアを開店してしまったのでした。その名も「yoron blue.」。

 悩んだのは、このブランドネームです。島人でも島内産でもないのに「与論」を名乗ることに少なからず葛藤はありました。しかし、他のどこでもないこの場所をアピールするのに「与論」は欠かせないと、あえて取り入れました。
 そして初めて島を訪れたときに自分の心を撃ち抜いた海の「青」。
 この2つを合わせて「yoron blue.」と名付けたのです。

 こんな通りのいい名前、誰かもう使っているんじゃないか? 小笠原では『ボニンブルー』、慶良間諸島では『ケラマブルー』など、地域の名前に「ブルー」を加えて海の色を表現する例はたびたび耳にします。当然『ヨロンブルー』も広く使われているものだと思っていました。
 ところが検索をかけてみると、意外にも「ヨロンブルー」という言葉は当時ほとんどヒットしませんでした。
 この言い回しがネットでも頻出するようになるのは、2014年に『死ぬまでに行きたい! 世界の絶景 日本編』(詩歩・著)で百合ヶ浜が紹介され、この島が再発見されはじめた以降のことです。観光協会や役場の観光課ほか地元からの働きかけで各種メディアにも取り上げられて与論の名が広まるにつれ、「ヨロンブルー」を目にすることも多くなりました。
 もともと与論の広報活動のためにと付けた名前が、今では逆に与論人気におんぶしたような形になっているのは皮肉なものです。

 おかげさまで最初に売り出したチャリティーTシャツの利益から島に義援金を送ることもできました。
 信じられないことに翌年、与論がまたもや強力な台風に襲われて前年に並ぶ被害が出た際には、島での定宿に協力してもらって現地でもTシャツを販売し、それについては全額を寄付しました。
 与論の名前を使わせてもらった面子も、どうにか立ったのではないでしょうか。

 今でも年に1度(もしくは2度3度と)与論に通い、新しいエネルギーを補充しています。もういい加減に移住してしまえばいいのにと思いながら。

ここからはちょっと宣伝です

 さて、その「yoron blue.」。Tシャツに加え、本来の広報活動を商品化したものとして、毎年カレンダーも制作しています。島に住む人による撮影にこだわり、よく見かける(そしてもっとも訴求効果のある)百合ヶ浜をはじめとした海の写真ばかりでなく、あえて観光資源として取り扱われることのない風景も取り入れた、一風変わった仕上がりです。
 その他にも与論の景観や文化を紹介していけるようなアイテムを制作してまいります。

 今後とも与論島と yoron blue. をよろしくお願いいたします。


10月2日追記】

 2018年9月29日、猛烈な勢力の台風24号が島を襲いました。現時点ではまだ被害の全貌が判明していませんが、上の記事中にもある2012、2013年の台風に匹敵する、あるいは超えるかもしれない大きな爪痕を残しているようです。離島に台風はつきものとはいえ、ほんの数年で同様の事態が起こるとは残念でなりません。しかし島人はすでに前を向いて復旧へ動き始めています。

 yoron blue. も最初にショップを開いたときの気持ちに立ち返り、10月から年末までの全売上より30%を義援金に充てることを決めました。
 今回の台風では他にも被害を受けている地域が多いと思います。もし余裕のある方は、それぞれのやり方で復旧への力添えをしていただけたらと願います。

 一日も早く、青い海に囲まれた緑あふれる島がよみがえりますように。

山の国に住みつつ与論島をテーマに活動中。なぜ? どうして? その顛末は note 本文にて公開中!