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感覚をひらく

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 「沈黙は金、雄弁は銀」という諺がある。私はもともと口数が少ないので、よく「何を考えているんですか?」と訊かれる。実際はただボケっとしているだけなのだが、傍目には何か難しいことを考えているように見えるらしい。そして、「考える」というのはなぜか、高尚なことのように思われている。
 先日私は心理療法士の先生に「マインドフルネス」というものを教わった。最初にマインドフルネスという言葉に出会ったのは、もう随分昔である。ティク・ナット・ハンというヴェトナムの偉いお坊さんがいた。ダライ・ラマと並ぶ平和活動家でもあった。彼の本を読んで、マインドフルネスという言葉を知った。
 マインドフルネスは、日本ではGoogleなどの米大企業が取り入れている瞑想法として紹介された。スティーブ・ジョブズに代表されるように、もともとシリコンバレーはヒッピー文化と強い親和性があったから、彼らは東洋の影響を強く受けていたわけであるが、このマインドフルネスをアメリカに広めるきっかけになったのが、先ほどのティク・ナット・ハンだった。
 しかし、私は彼の本を読んでも、マインドフルネスというものがよく理解できなかった。彼は「歩く瞑想」といものを提唱するのだが、私にはどうやって歩きながら瞑想するのかわからなかった。
 突然だが、ここでちょっとマインドフルネスを実践してみよう。あなたの目の前にあるものに触れてみてください。なんでも構いません。机なら机に触れてください。そして、五感で感じられることに集中してください。たとえば、それは固いですか? 柔らかいですか? 冷たいですか? 温かいですか? ざらざらしていますか? つるつるしていますか?……ところで、いまあなたがそれを感じていたとき、あなたは何か考えていましたか? 何も考えていなかったのではないでしょうか。たとえほんの一瞬だとしても。
 何も考えないようにするのは、なかなか難しいことである。よく座禅を組んだりして、心を無にするなどと言うが、考えないようにすればするほど考えが浮かんできてしまう。しかし、先ほどのように感覚に集中すると、心は自然と無になる。“Don’t think, feel.”という有名な言葉があるが、じつは感じることによって、人は自然と考えることから解放されるのである。
 この「感覚に集中する」という行為は、練習すればするほど上達するそうだ。「歩く瞑想」というのはきっと、足の裏で地面を感じることなのだ。そうすることで歩きながらでも瞑想することができる。感覚を大切にと言われても、具体的にどうすればいいかわからない方も多いと思う。でも、たとえば電車に乗っているときに、ガタンゴトンという音に耳をすませてみる。それだけでも感覚は磨かれていく。
 マインドフルネスをやってみると、われわれは普段いかに多くのことを「考えて」いるかがわかる。「考えすぎ」と言ってもいい。そして、考えずに感じるということは、とてもシンプルなことである。いつも何気なく飲んでいるコーヒーも、今日はその苦さを舌で感じながら飲んでみませんか。
(二〇二二年七月)


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