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理解と解釈

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 「お腹すいた」という言葉を、文字通り自分が空腹であることを示すために使う人は、ほとんどいないであろう。子供が親に対して言ったなら、それは「ご飯まだ?」という催促だし、友達どうしでの会話なら、「何か食べに行かない?」という問いかけになる。
 われわれは漠然と、「言葉」という乗り物が「意味」という荷物を乗せて運んでいくようなイメージを抱きがちだが、そのような言葉の運用は、じつはきわめて限定的ではないか。冒頭の例を見てもわかるように、言葉に対する解釈はいくつも可能だが、そのどれが正解かを決定する要素は、当の言葉自身には含まれていない。「子供と母親」とか「友達どうし」といった「構造」が見えたとき、はじめて理解が浮かび上がってくるのである。
 柳瀬尚紀氏は、著書『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』によって、『ユリシーズ』の第十二章の語り手が、じつは犬なのではないかという説を展開した。つまり、漱石の『吾輩は猫である』のごとく、語り手は犬だが人間の言葉を理解し、また人間の言葉で語る。そのように考えると、一見ちぐはぐに見える会話や不可解な描写が、すんなりと自然なものとして理解できるというのである。私は英文学者ではないので、この説が正しいかどうか、それは知ったことではない。ともかく柳瀬氏は、さまざまな解釈が繰り広げられるこのキュクロープス挿話において、「吾輩は犬である」という構造を見たとき、出し抜けにその理解が浮かびあったというのである。
 「先生トイレ!」が「先生=トイレ」という意味でないことは、ヴィトゲンシュタインに言われるまでもない。われわれがこれを「正しく」理解できるのは、その構造が自明だからである。それに対して「先生はトイレではありません」という反駁は、意図的に構造を無視することで、理解を拒絶しているのである。
 ユリシーズの例もそうだが、構造が見えないとおかしな解釈が出てくる。金は渡したが買収ではないと言われて、ハイそうですかと納得する人がいるだろうか。「事実ではなかったが捏造はしていない」という弁明も、これと同じである。事実ではないのに事実であるかのように装うことを、ふつうは捏造という。だが、捏造の定義が問題なのではない。ここで明らかにされなければならないのは構造の方であって、解釈はどうでもいいのである。繰り返すが、構造が見えないからディスコミュニケーションが生じるのである。
(二〇二二年一月)

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