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手帳の余白

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 「手帳は余白を埋めるためにあるのではなく、余白を空けるためにある。」そう言ったのは、「超」整理手帳を考案した野口悠紀雄氏である。たしかに、私も余白が空いているとついそれを埋めたい衝動に駆られてしまう。そのたびにこの言葉を思い出している。
 養老孟司氏は、「手帳に書かれた未来は現在である」と言った。これはやや踏み込んだ表現だが、正鵠を射ている。どうなるかまだわからないのが未来だとすれば、そうなることが決まっている未来とは、もはや現在に近い。
 人は手帳の余白を埋めたがり、未来を現在化したがる。ほとんど脅迫症と言ってもよい。どうなるかわからないということが、それほど不安でたまらないらしい。その極め付けが「レールを敷かれた人生」である。いい大学に入って、いい会社に就職して、結婚して、子供を作って……。それを逆算していくと、限りなく現在が限定されてしまい、一本道のレールの上を行くがごとき人生になる。かつては大人がそれを子供に押し付けたのだが、いまでは若い人までそう思っている。「だって、大学くらい出てないと、まともな仕事に就けないじゃないですか」とかなんとか。そういう人を「いまを生きていない」などと評したりするが、逆である。そういう人は、現在しかないのである。
 世の中を渡っていく上で、予定を立ててその通りに実行するというのは、当然必要なことである。しかし、ぎっしり予定で埋まった手帳を眺めて悦に入るような人間にはなるまいと思う。忙しいアピールするのは見苦しいだけではなく、年寄りの病気自慢と同じで不幸自慢だから、幸せなわけがない。
 プロのデザイナーは余白の取り方がうまい。素人は余白があると、そこに何かを入れたがる。すぐれたデザインには適度な余白があるように、人生にもまた適度な余白が必要だ。もっとも私の手帳は、そんな心配の必要もないくらい余白だらけなのだが。
(二〇二〇年十一月)


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