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弱者への羨望

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

めまいを弱さからくる酔いと名づけることもできよう。人間は自分の弱さを意識すると、それに立ち向かわずに、むしろ服従しようとする。おのれの弱さに酔いしれ、もっと弱くなりたがり、みんなの見ている前で、広場の真ん中で倒れたくなり、下にいたいと欲し、下よりさらに下に行きたいと望む。

──ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より

 『存在の耐えられない軽さ』は何度も読んだ小説だが、この一節はやけに印象に残る。クンデラによればめまいとは、落下への恐怖ではなく、落ちてしまいたい誘惑なのである。「強くなりたい」のではなく、「弱くなりたい」。なぜなら、弱者は他者を引き寄せずにはおかないからである。
 もしもあなたの目の前で、誰かが突然倒れたりしたら、きっとその人を助けようとするだろう。もしかするとあなたは待ち合わせの時間が迫っていて、目的地へと急ぐ途中かも知れない。しかし、助けられるのが自分しかおらず、その人が重大な危機に陥る可能性があるとしたら、何はともあれその人の救助を優先するだろう。
 人間は自分の弱さを認識したとき、強くなろうとするのではなく、むしろ弱くなろうとする。このような心理は、日常生活の至るところで見つけることができる。すぐに思い浮かぶのは、年寄りの病気自慢である。病人を見ると羨ましくなり、自分の方がもっと重病人だと思いたがる。そしてその証拠が見つかると、病気であることを誇りにすら感じ、あげくのはてには、本当は罹っていない病気までデッチあげたりする。
 あるいは、差別している人間がその相手に対して、本当は自分の方が差別されているのだと主張することもある。たとえば、女性から「セクハラなのでやめてください」と言われると、「イケメンは許されるのに?」と男はやっかむ。自分は不細工だから、容姿で差別されているのだと反論する。そして「逆ハラスメントだ!」と騒ぎ立てる。フェミニズムに対する非難の大部分も、結局は弱者に向けられた嫉妬である。
 「こんな人たちに負けてはならない」という口上もまた、めまいに目が眩んだ人間のそれである。自分の弱さに酔いしれて、「見てください、私はこんなにも弱いのです! それなのにあの人たちは私のことを虐めるのです! だから私を助けてください! みなさんの助けが必要です!」そうやって同情を誘う。
 再びクンデラの小説に戻ろう。作者はニーチェとパルメニデスを引き合いに出して、「耐えられないのは重さか、軽さか」という疑問を提示した。では、これが「強さ」と「弱さ」だったらどうか。この二つなら、いったいどちらの方がわれわれは耐えがたいのだろうか。
(2024年4月加筆修正)

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