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思想は処女を誇れない

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 𝑁𝑜𝑏𝑜𝑑𝑦 𝑑𝑖𝑒𝑠 𝑎 𝑣𝑖𝑟𝑔𝑖𝑛, 𝑙𝑖𝑓𝑒 𝑓𝑢𝑐𝑘𝑠 𝑢𝑠 𝑎𝑙𝑙. 処女のまま死ぬ奴なんていない、みんな世の中に犯られちまうからな──これは、二十七歳で命を絶ったロック・ミュージシャン、カート・コバーンの有名なセリフである。私の恩師・木戸三良先生は、戦中生まれの哲学者だからニルヴァーナを聴いていたとは到底思えないが、「哲学は処女ではない」というのが口癖だった。先生は難解な哲学用語を使わず、文学の言葉で哲学を語った。哲学用語の存在意義は尊重しつつも、ペダンティズムに対しては「哲学は観念の遊戯場ではない」と一刀両断にした。
 若気の至りとはよく言ったもので、恥ずかしながら私も若い時分は、イデオロギーを振りかざして「戦争反対」「憲法九条を守れ」などと大上段に構えていた。もちろん、これらはとても大切なことである。しかし、いま思えばその頃の私は、思想の純粋さに酔いしれ、イデオロギーを謳うこと自体が目的と化し、現実社会との接点を見失っていた。オメデタクもウブな奴だったというわけだ。
 美しい日本を愛する。それはいいことだ。しかし、思想の純潔さに殉じてはなるまい。そうなると美しい日本しか愛せなくなり、美しくない日本が許せなくなり、日本が美しくあるために、美しくないものすべてを日本ではないかのように、ありのままの日本を受け入れられなくなる。そのように思想を神聖化したところで、それは思想の処女性(童貞性)を誇示しているにすぎず、この猥雑な現実世界にあっては、結局何も産み出せはしないだろう。
 なぜこんなことを書いたかというと、某化粧品会社の会長のヘイト発言を読んで、冒頭の言葉を久しぶりに思い出したからである。個人的にいうなら、日本人の従業員だけで、日本産の原材料だけを作って、日本人のためだけの商品を作りたいなら、勝手にすればよかろうと思う。しかし、海外からひっきりなしに人材が流入する時代、輸入品に頼らなければ日常生活すら立ち行かない現代において、そのような純潔性しか誇れない童貞野郎に、生産性などは皆無であろう。
 思想は肉体を支える限りにおいて思想たり得るのであり、肉体が立ち行かなくなれば、思想はその純潔性を捨てねばならない。思想への忠誠を貫くために肉体を軽視し、精神の遊戯場でたわむれることは、ひとりよがりのマスターベーションでしかない。思想は決して処女を誇れないのである。
(二〇二一年二月)


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