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それは何の役に立ちますか

 「そんなことをして、いったい何の役に立つんですか?」こういうふうに訊かれると、「またか」とウンザリする。別に、質問する方もこちらを黙らせるために言っているわけではないのだろう。純粋に何の役に立つかが知りたい。それだけなのかもしれない。
 当世、人文科学が不評だ。国立大学の文系学部は廃止せよという声もある。あんなもの、読書感想文と同じだ。お金をかけて学ぶことじゃない。もっと人生に役立つことを教えろ。
 文学は何の役に立つのか。もちろん何の役にも立ちはしない。では、そんなことを学んで何の意味があるのか。
 こういう話がある。ある新卒の採用面接で、応募者の一人がたまたまフリッパーズ・ギターのことを知っていた。それで80年代のポップカルチャー談義に花が咲き、それが決め手となってこの若者は採用された。
 この若者がどういうきっかけでフリッパーズ・ギターを知ろうと思ったかは知らない。ただ、「フリッパーズ・ギターを知っていれば、おじさん世代と話すときに役立つだろう」などと考えていなかったことは確かである。単純にフリッパーズ・ギターに興味があったから調べた。それだけだろう。
 役に立たないと思っていたことが、思わぬところで役に立つ。これは、いわゆるセレンディピティとは異なる。セレンディピティとは、失敗だと思ったことが、意外な成功につながることである。ペニシリンやポスト・イットの例が有名だ。これらは過程はどうあれ、始めからから終わりまで「役に立つ」ためにやっている。ビジネスにおいてはもはや「どうやってセレンディピティを起こすか」という発想になっており、すべては有用性の文脈に回収される。
 だが、われわれ人間の一生というものは、このように有用性という文脈に回収することはできない。もし人生を有用性という物差しで測ろうとすれば、どんな偉人の人生も無駄の堆積でしかなく、「もっと上手くできた」ことになってしまう。
 若いころ好きだった海外ドラマの主人公が、あるときこんなセリフを口にした。「〝人生に無駄というものは存在しない〟というのが私の信条でね。」これはいったいどういうことか。
 われわれは日々、一見すると無駄にしか思えないことに多大な時間と労力を費やしている。そして巷に溢れる自己啓発書やビジネス哲学は、いかにしてこの無駄を最小化し、有益で効率的な生き方をするかを説いてくる。だが、そのような「人生の最適解」は、生きていて楽しいのだろうか。
 私はデザインを生業としている。私はこの仕事を天職だと感じているが、結果だけから見れば、私はデザイナーになるために、ずいぶんと余計な回り道をしてきたと言える。大学で学んだことはデザインにまったく無関係だし、アルバイトの経験もあまり役に立っていない。しかし、もし私が社会人になるときに神様が降りてきて「お前はデザイナーを目指せ」と告げられていたら、はたして自分はいまデザイナーをやっているだろうか、とも思うのだ。寄り道のない合理的な人生というものは、決して現実化することはない。何が寄り道で、何が近道かは、結局最後までわからないのだから。
 何が言いたいのかというと、役に立つことだけを選んでやっていたら、いま見えている範囲の世界にしか行けないということである。だが、役に立たないことをすると、その先の世界に行ける可能性が生まれる。もちろん、これはあくまでも可能性である。しかし、有用性だけを追い求めていたら、その可能性さえも手に入らない。
 本を読むと人生が豊かになる。中学校のとき、国語の先生にそう言われた。本を読むことが何の役に立つんだよ。読まなくたって生きていけるじゃないか。人生が豊かになるって何だよ。意味わからねえ。そう思っていた。でも、いまならわかる。本を読むことは、役に立たないからこそ意味があるのである。
 識者たちが人文科学の有用性を躍起になって主張している姿を見ると、「おいおい、あなたたちまでそんなことを言わないでくれ」と落胆してしまう。彼らこそ胸を張ってこう言わなければならないのである。役に立つことだけをやろうとするな。役に立たないことをする勇気を持て。人生をもっと無駄遣いしろ。

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