見出し画像

汚れ仕事

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 「汚れ仕事」という言葉がある。具体的にどのような仕事を思い浮かべるかは人それぞれだと思うが、服が汚れるから汚れ仕事なのではない。普通はやりたがらないから汚れ仕事なのである。会社でも損な役回りのことを「汚れ役」などと言う。「仕事に貴賎無し」という諺があるのも、誰かがやらなくてはならない仕事だからこそ、周囲は敬重すべしということなのであろう。
 これと比べると、「底辺」というのは随分と品がない言い方である。とある就職情報サイトが「底辺の職業ランキング」という記事を書いたのだが、それによれば、コンビニ店員やゴミ収集、トラック運転手などがこれに該当するという。世の中に必要な仕事なのに、「底」辺とは何事か。案の定、この記事は炎上した。だが、底辺という言葉は、この記事を書いた人間が考えたというよりも、世の中の空気を読み取ってそう書いたというのが正しいだろう。これらの職業は汚れ仕事、すなわち不人気にもかかわらず、賃金が安い。要するに割りに合わないから底辺と言われてしまう。
 しかし、考えてみれば不思議である。「社会に必要」で「人がやりたがらない」仕事なのに、なぜ賃金が低いのか。コンビニや宅配便がなければ困る。お年寄りや赤ちゃんの世話をしてくれる人がいなかったらどうすればいいのか。そうした仕事こそ、たくさんお金をもらっていいのではないか。そういうとき、必ずこう反応する人がいる。「だって、儲からなけりゃ仕方ないじゃないですか。」
 経済の話をするとき、お金儲けの話だと勘違いしている人が多い。経済とは何だろうか。少し長くなるが、経済評論家の内橋克人氏の文章を引用したい。

今日に明日をつなぐ人びとの営みが経済なのであり、その営みは、決して他を打ち負かしたり、他と競り合うことなくしてはなりたちえない、というふうなものでなく、存在のもっと深い奥底で、そのものだけで、いつまでも消えることのない価値高い息吹としてありつづける、それが経済とか生活というものではなかったでしょうか。おぞましい競り合いの勝者だけが、経済のなりたちの決め手であるはずもないのですから。

──内橋克人『共生の大地』岩波新書

利益を追い求めることは悪ではない。しかし、利益さえ出ればいいということではないし、利益が出なければ立ち行かないというのもおかしい。たとえば教育や芸術は、本来利潤を生み出す営みではない。逆に利潤を大きくしようとすればするほど、その教育や芸術は歪んだものになってしまうだろう。しかし、人間が人間らしく生きてゆくためにはこれらが必要不可欠だとすれば、儲けることは本当は二の次である。
 漢和辞典は今のうちに買っておけという話がある。辞書というのは編纂するのに十年かかる。いや、もっとかもしれない。改訂ですら七、八年。だから、漢和辞典みたいに需要のない辞書はもう作れない。いま出ている版が最後かもしれないという。利益が出ない部門は切り捨てられても仕方ない。本当にそうだろうか。昔だって、辞書作りは儲かっていたわけではないだろう。辞書を作る必要があったから作った。それだけである。お金をどうするかは、じつは関係ない。別に、辞書で儲けなくたっていいのである。ところが、昨今では「利益が出ないとやってはいけない。」そう言わんばかりである。
 「でも、お金は必要ですよね。」それはそうに決まっている。だが、日本ほどの経済国で、辞書のひとつも作れない方がどうかしているだろう。辞書に儲ける知恵を出させる必要はない。辞書はよい辞書を作ることだけ考えればいいのである。どうしてそんなことすらわからなくなってしまったのか。利益至上主義。いちばん稼いでる人間がいちばん偉い、稼げない奴は底辺という不遜。前述の内橋氏は「市場主語ではなく市民主語」という言葉を残している。なぜ経済の主人がわれわれ人間ではなく、市場の原理でなければいけないのか。もう一度内橋克人氏の文章を読み直していただきたいのである。
(二〇二二年九月)


養老先生に貢ぐので、面白いと思ったらサポートしてください!